食卓の主役・コメの価格高騰が止まらない。農水省による備蓄米の放出後も値段の高止まりが長引いており、これには「転売業者」による買い占めも影響しているといわれる。
いつの時代も、機に乗じて懐を肥やそうとする者がいる。
第2次世界大戦後、日本の敗北によって南北に分断され、深刻な食料不足に陥っていた朝鮮半島でも、地主などによる「投機的なコメの買い占め」や「日本への不正輸出」が横行したという。市場に出回るコメの量は激減し、分割統治を担ったアメリカとソ連の対立は先鋭化する。そして、北側に閉じ込められた日本人の正式な引き揚げも遅延に遅延を重ね……。
【この記事の写真を見る】「日本人6万人」の命を救った「男」 武骨な雰囲気、だが瞳には強い意志が宿っている――〈実際の写真〉
朝鮮半島に取り残された在留邦人の窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「忘れ去られた英雄」を現代によみがえらせる歴史ノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。
「北」に閉じ込められた日本人
1945年8月、敗戦によって日本の植民地支配が終わり、拠り所を失った朝鮮半島に住んでいた在留邦人は事実上の「難民」と化した。
終戦まで南朝鮮に住んでいた日本人の本土への引き揚げは早かった。北緯38度線以南に軍政を敷いた米軍は、早期に送還する方針を徹底させ、同年10月3日、本格的に送還を開始すると発表した。南朝鮮にいた約45万人の日本人は翌年春までに、ほとんど引き揚げた。その後、南朝鮮にとどまったのは京城(現・ソウル)、釜山(プサン)の日本人世話会職員など限られた人々であった。
一方、北朝鮮に進駐したソ連軍は1945年8月25日までに、北緯38度線を封鎖した。北緯38度線は朝鮮の土地と民族を二つに分ける“国境”と化していく。北朝鮮に進駐していた日本の軍人は捕虜としてシベリア送りとなり、民間人は自由な移動を禁じられた。
北朝鮮で日本人の正式な引き揚げ事業が始まったのは1946年12月である。その間、満州から南下した人を含め32万人と推定される民間邦人のうち、27万人以上の人が自分の足で南朝鮮に脱出し、2万6000人以上が飢えと病で死亡した。