妥協のない姿勢から生まれる迫真の演技
俳優の三國連太郎さんが90歳で死去してから、早くも12年の歳月が流れた。60代から演じた映画「釣りバカ日誌」シリーズのスーさん役で人気を博し、08年には息子でおなじ俳優の佐藤浩市との共演CMが話題を呼ぶなど、今で言う「イケオジ」の元祖的存在と考える向きも多いだろう。だが実は、16歳で家を飛び出し放浪、中国戦線への出征、職探し中にスカウトされ映画界入りと、その人生は早くから波乱の連続だった。
共演者が恐怖を覚えるほど役にのめり込み、私生活では4度結婚。役者を志した佐藤浩市に“縁切り”を宣言したこともあり、長く確執を抱える親子関係だったという。一方、妥協のない姿勢から生まれる迫真の演技は唯一無二のオーラを放ち、日本を代表する名優のひとりとしてその名は永遠のものになった。
2013年4月14日の死去後、「週刊新潮」は生前の三國さんを知る関係者に取材を敢行し、その生涯を追った。第1回では、最初で最後の親子共演作「美味しんぼ」でメガホンを取った森崎東監督が見た“親子の確執”や、「役者バカ・三國連太郎」の土台を作った若い頃のエピソードをお届けする。
(全2回の第1回:「週刊新潮」2013年5月2・9日号「狂気の役者バカ 『三國連太郎』伝」をもとに再構成しました。敬称一部略)
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「三國さん」「あの人」「彼」と呼ぶ息子
三國連太郎が急性呼吸不全で死去したのは2013年4月14日。享年90。映画界、芸能界に確固たる足跡を残しての大往生である。
翌日、長男で俳優の佐藤浩市は記者たちから三國の存在について問われ、「(父親としては)ひどいよ、そりゃあ。一般論としての親子の会話っていうのは、できないです。僕と彼の間に介在したのは役者という言葉だけ」と答えていたが、興味深いのは、三國のことを「彼」と言った点。
生前から佐藤は「あの人」や「三國さん」といった呼称を使ってはいたものの、死してなお自らの実父を「彼」と表現したのである。また同日、佐藤は三國との思い出を聞かれ、役者の道に進むことを告げたシーンをこう振り返った。
「早稲田駅のホームで電車に乗るときに、そんなこと(役者)を言った。三國は『そうか』と一言残して、電車に乗りました」
が、2人の関係の分岐点となったこの時のことについて三國の脳裏には別の記憶が刻まれていたようで、生前のインタビューでは、「(佐藤から役者挑戦を告げられ)おやりになるなら、親子の縁を切りましょう、と言いました」と語り、自著『生きざま死にざま』でも次のように綴っている。
〈「いずれにしても、一人で生きていくしかない世界だから」と彼に宣言しました。その後の彼の発言は、みごとにすばらしい内容でした。「あんな親父の真似はしたくない」いや、これは大変に結構な自覚です……。「アカの他人でございまして。三國さんは」いや、立派に巣立ちました。たしかに子供は自覚によって生き、育っていくものです。これからも、その心意気を忘れないよう祈ります。〉