ソプラノ歌手の佐藤しのぶさんが9月29日、61歳で亡くなった。今秋もコンサートの予定があり、歌声を聴きに行けると思っていた。突然の訃報に触れ、2カ月近くたつ今もまだ呆然(ぼうぜん)としている。
「人の命には限りがありますが、次の世代にバトンを渡すことができる。私の命は素晴らしい芸術を伝えていくことにささげます」。こう話していたのは、ちょうど10年前のインタビューだった。
今は録画した追悼番組やネット上の動画を繰り返し見て歌声に耳を傾けている。包容力のある歌声と、音を繊細に揺らすビブラートに心が震える。
この人を通じて、オペラを知ったという方も多いだろう。昭和62年から4年連続でNHKの紅白歌合戦に出場した。まだ日本でオペラは一部の愛好家のものだったころだ。圧倒的な歌唱はクラシックというジャンルを超えて人々を魅了し、オペラ文化の伝道師となった。
音楽は言葉や国籍、そして時代さえも超えて愛や命の尊さを伝えることができる、と信じた人だった。チェルノブイリ原発事故で被曝(ひばく)したベラルーシの子供たちを歌で励まし、バングラデシュではストリートチルドレンたちと歌で交流した。
産経新聞で平成23年11月から昨年3月まで6年4カ月、毎月1回、コラムを執筆。東日本大震災以降、被災者のためのチャリティー公演を行う一方で、未曽有の被害に対し音楽家にできることは何かと自問する日々をつづっていた。それは、愛や命の尊さを自らの歌唱以外でも伝えたいという願いの形にみえた。
コラムのタイトルは「佐藤しのぶのPOCO(ポコ) A(ア) POCO(ポコ)~ゆっくり いこう~」。音楽用語で「少しずつ」の意味を持つポコ・ア・ポコという言葉が入っている。少しずつでも世の中が平和になれば、少しずつでもクラシック音楽を好きになってもらえたら…そんな思いが伝わってきた。
パソコンにコラム掲載直前に送られてきた短いメールが残っていた。
「読者の方にわかってもらえるでしょうか」
大丈夫、十分、伝わっています。けれど、しのぶさん。ゆっくりいこうと言っていたのに、お別れが早すぎます。
◇
【プロフィル】安田奈緒美
平成11年入社。大阪文化部でクラシック音楽、大阪経済部で製薬業界などを取材。今年11月から大阪総局次長として関西広域面を担当。