臭気まき散らす黄金列車、童謡「春の小川」は下水道に…臭い物に蓋をせず学ぶ「日本ウンコ史」


【写真を見る】かつて代々木公園のすぐ傍を流れていた「春の小川」 今は跡形もない

(前後編の後編)

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※この記事は『ウンコノミクス』(山口亮子著、集英社インターナショナル)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。

近代化とともに化学肥料のシェアが急伸

 それまで使われてきた下肥や魚粕、大豆粕はいずれも遅効性だった。与えてもすぐには効果が出ず、土壌に棲む微生物に分解されることで、じわじわと効果を発揮する。

 それに対して、硫安といった化学肥料は速効性だ。輸入と国内製造で大量に流通するようになり、価格が下がったことで、便利な肥料として全国に広まった。硫安は今も盛んに使われている。

 分が悪いのは、魚粕や大豆粕に比べても扱いが面倒な下肥である。その需要の急減と反比例して、原料となる都市での屎尿の発生量は人口集中により増えた。

西武鉄道が黄色いのは…? 

 1932(昭和7)年ごろから窮余の策として、「海洋投棄」が始まった。海洋投棄は読んで字のごとく、屎尿をそのまま海に捨てるという、現代の感覚からすると信じられない処分方法をいう。

 不衛生さから沿岸部で多数の赤痢患者を出したこともあった。その後、国策として海洋投棄をやめる方向が示されたものの、ずるずると続けられた。

 全面禁止されたのは2007(平成19)年と、比較的最近のことである。

 東京で下肥の需要が減っても、かえって下肥を求める地域もあった。私の住む埼玉県が まさにそうだ。大正から昭和にかけて、人口の集中が進む東京に野菜を供給する産地が 次々と形成されていく。そんな近郊農業地帯にとって、野菜を安定供給するうえで欠かせ ないのが、東京の屎尿だった。

 1921(大正10)年に入間郡農会が東武東上線と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で屎尿の輸送を始めている。

 農会は、明治以降に全国各地で結成された任意の農業組織である。のちに農業会へと引き継がれ、戦後に農協(JA)となった。県の農会が郡の農会を、郡の農会が町や村のそれを指揮、監督していた。

 1930年代に入っても、埼玉県農会が中心になって屎尿を東京市から調達し、農家に配給していた。主な輸送の手段は自動車と船で、地域ごとに貯留槽を造って溜め込んだ。同県において耕地面積の三分の一が屎尿の供給を受けたという。

 屎尿の鉄道輸送で有名なのは、東武より西武の方だ。西武鉄道は戦中戦後、東京の中心部で処理しきれなくなった屎尿を貨車で運んでいた。戦時中の物資不足で海洋投棄ができなくなったこともあり、近郊の農家に出口を求めたのだ。

 覆いのない無蓋貨車で強烈な臭気を放つので、「汚穢列車」とか「黄金列車」と呼ばれ、1950年代まで走っていた。西武線の車両が黄色いのはその名残だなんていう俗説もある。



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