今年1月、埼玉県八潮市で起きた道路陥没事故は日本国民に大きな衝撃を与えた。耐用年数に満たない下水管の腐食で道路に穴があき、トラック一台が転落して運転手が行方不明になったのである。今や汚水処理人口普及率は「93.3パーセント」に達するというが、そこに至るまでには、長い歴史があった。知られざる日本の「ウンコの歴史」とは――
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(前後編の後編)
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※この記事は『ウンコノミクス』(山口亮子著、集英社インターナショナル)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。
近代化とともに化学肥料のシェアが急伸
近代化が進むにつれ需要を伸ばしたのが、化学肥料の硫酸アンモニウム(硫安)だ。窒素を豊富に含み効きが早い速効性の肥料で、1896(明治29)年に輸入が始まり、1901年に東京瓦斯(ガス)が国内での製造を始めた。
それまで使われてきた下肥や魚粕、大豆粕はいずれも遅効性だった。与えてもすぐには効果が出ず、土壌に棲む微生物に分解されることで、じわじわと効果を発揮する。
それに対して、硫安といった化学肥料は速効性だ。輸入と国内製造で大量に流通するようになり、価格が下がったことで、便利な肥料として全国に広まった。硫安は今も盛んに使われている。
分が悪いのは、魚粕や大豆粕に比べても扱いが面倒な下肥である。その需要の急減と反比例して、原料となる都市での屎尿の発生量は人口集中により増えた。
西武鉄道が黄色いのは…?
化学肥料の隆盛とは反対に、屎尿は行き場をなくしていく。1930(昭和5)年に汚物掃除法が改正され、屎尿処理へ行政の介入が強まる。東京の屎尿処理は、東京市が直轄することになった。
1932(昭和7)年ごろから窮余の策として、「海洋投棄」が始まった。海洋投棄は読んで字のごとく、屎尿をそのまま海に捨てるという、現代の感覚からすると信じられない処分方法をいう。
不衛生さから沿岸部で多数の赤痢患者を出したこともあった。その後、国策として海洋投棄をやめる方向が示されたものの、ずるずると続けられた。
全面禁止されたのは2007(平成19)年と、比較的最近のことである。
東京で下肥の需要が減っても、かえって下肥を求める地域もあった。私の住む埼玉県が まさにそうだ。大正から昭和にかけて、人口の集中が進む東京に野菜を供給する産地が 次々と形成されていく。そんな近郊農業地帯にとって、野菜を安定供給するうえで欠かせ ないのが、東京の屎尿だった。
1921(大正10)年に入間郡農会が東武東上線と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で屎尿の輸送を始めている。
農会は、明治以降に全国各地で結成された任意の農業組織である。のちに農業会へと引き継がれ、戦後に農協(JA)となった。県の農会が郡の農会を、郡の農会が町や村のそれを指揮、監督していた。
1930年代に入っても、埼玉県農会が中心になって屎尿を東京市から調達し、農家に配給していた。主な輸送の手段は自動車と船で、地域ごとに貯留槽を造って溜め込んだ。同県において耕地面積の三分の一が屎尿の供給を受けたという。
屎尿の鉄道輸送で有名なのは、東武より西武の方だ。西武鉄道は戦中戦後、東京の中心部で処理しきれなくなった屎尿を貨車で運んでいた。戦時中の物資不足で海洋投棄ができなくなったこともあり、近郊の農家に出口を求めたのだ。
覆いのない無蓋貨車で強烈な臭気を放つので、「汚穢列車」とか「黄金列車」と呼ばれ、1950年代まで走っていた。西武線の車両が黄色いのはその名残だなんていう俗説もある。