妊娠5カ月で海に潜り、死にかけた…「あの世で稼ぎ、この世の子どもを食わせる」過酷な“済州の海女”の悲哀と覚悟


【動画】済州島の海女に伝わる民謡「イオドサナ」を披露する姜玉來さん

 「たくさん採れて、たくさんお金を稼げた時がやっぱり一番楽しいね」。島南部の海女、林玉子(インオクチャ)さん(68)は仲間の海女たちと経営する海産物の飲食店で、いたずらっぽく笑った。

 林さんは父親が漁師で5人の姉が海女だったことから、幼い時から海に通い、自然と素潜りの技術を覚えた。20歳で本格的な海女になり50年近く、海に潜り続けている。

 海中は水圧による体への負担が大きく、林さんは慢性的な頭痛を患っている。「息子と娘に勉強させて結婚させるために続けてきた。生きていくためにはこれしかなかった」と話す。

 観光が盛んになる前の済州島はこれといった産業がなく、女性は経済的な理由から海女になるケースが多かった。体を酷使する労働だが、島に生まれた女性の「宿命」として引き継がれてきた。

 海女の多くは6~8歳の頃に浅い海で泳ぎと潜り方を覚え、10代半ばでエギヘニョ(子どもの海女)としてデビューする。酸素ボンベなどを付けずに水深5~20メートルまで潜り、アワビ、サザエ、海藻などの魚介類を採取。呼吸のため水面に上がることを繰り返す。経験豊富な海女は2分以上も息を止めることができるという。

 海女は島に102ある水産業協同組合に所属し、漁場の境界や漁期などの規定に沿って活動している。技量によって「上軍(サングン)」「中軍(チュングン)」「下軍(ハグン)」に分けられる。林さんは中軍だ。最も能力が秀でた海女は「大上軍(テサングン)」と呼ばれ、波の音だけで天気予報よりも正確に天候を予測することができると言われている。

 島にある海女博物館によると、三国史記「高句麗本紀」には、済州から真珠を献上したとの記録が残っていることから、海女は三国時代(日本の古墳時代とほぼ並行する4~7世紀)以前からいたとみられる。類似の漁法の起源について、専門家は「2000年以上前にさかのぼる」と推測する。



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