日本に在留するクルド人が年々増えているが、彼らは「トルコで迫害されている難民だから」という理由で日本へやって来ている。果たして、それは本当なのだろうか……?クルド人の故郷は一体どんなところなのか。欧州事情に通じたジャーナリストが、現地を取材した。※本稿は、三好範英『移民リスク』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。
● 「こんにちは」「さよなら」 日本語が飛び交う“難民”の出身地
川口、蕨市在住のクルド人が在留する根拠が、「我々はトルコで迫害されている難民だ」という主張である。その当否を確かめるには、多くのクルド人の出身地であるガズィアンテップ県を訪ね、現地の様子を取材するにしくはない。
2024年5月、イスタンブール経由で空路、ガズィアンテップ市に行き、周辺のいくつかの村を、イスタンブール在住のトルコ系ドイツ人通訳と回った。
「こんにちは」──小学生たちが口々に日本語で話しかけてきた。ガズィアンテップ市から車で1時間ほどのヒュリエット村の小学校。校庭ではのんびりと牛が草を食んでいて、鳥のさえずりや鶏の鳴き声が聞こえてくる。
ガズィアンテップ市から郊外に出ると、大きな岩が一面に転がった赤茶けた斜面に、深い緑の灌木、ピスタチオやオリーブの木が点在している。羊飼いに追われる羊の群れが、岩の間を長い列を作って通り過ぎる──幹線道路から枝道に入り、さらに細い田舎道の坂を上がっていくと、ヒュリエット村があった。たくさんの燕が家々の間を飛び回っていた。
トルコ国旗が掲揚された、平屋の粗末な校舎。その前の校庭に集まってきた3、4年生12人は、口々に「兄のうち2人が日本にいる」「いとこが日本人の女性と結婚して日本にいる」などと話し、中にはお土産にもらったという1円玉を自慢げに見せる男の子もいる。
子供たちの日本在留の親族は全て川口、蕨市にいる、という。
小学校を離れるとき、子供たちは「さよなら」と手を振った。日本に対して親近感を抱いているようだった。
● 「息子が蕨市で解体業についている」 父親が語る在留生活
ヒュリエット村から1時間ほど離れたガズィアンテップ県に隣接するカフラマンマラシュ県テティルリク村は、粗末なレンガ造りの農家が山の斜面に並ぶ村だった。大きなトラクターが倉庫に停めてある農家の庭先で老夫婦がたたずんでいたので、近所の人が集まっている「集会所」がないか聞いた。
「娘がいま日本にいる」と妻は話した。日本から来たと言ったので、好感を持たれたのか、夫がトラクターで先導するからついて来い、と言う。
中東諸国の田舎には、昼間から近所の男たちが集まってお茶を飲みながら過ごす集会所とでもいうべきたまり場がある。集会所は坂を数分下ったところにあった。看板も何もなく、外見からはそれとはわからないコンクリートむき出しの建物だった。
中に入ると10人ほどの中高年の男性がお茶を飲んだり、トランプに興じたりしていた。ここでも私が部屋の中に入っていくと親しげに「こんにちは」と声をかけてきた。
その中の1人アリ・ジャンさん(62歳)は「27歳の私の息子は期限付きの在留資格を得ており、5年前から蕨市で解体業についている」といって、その場でスマートフォンを使って蕨市にいる息子と連絡を取り、私もスマホの画面を通してその息子と、日本語で一言二言言葉を交わした。
もう1人息子がいるが、日本に6、7年在留したのち、結婚して今ヨーロッパにいる。
● 政治的迫害は今はない… それでも日本を目指す理由
何人かの男性が訴えたのは、本人や親族が日本の入管施設に収容されたり、送還されたりしたことへの不満だった。
77歳の男性は、「25歳の孫は今、入管庁の施設にいる。2週間前に日本に行って空港で拘束され、施設に送られた」という。村人の1人が言うには、2組の家族が昨日、成田に向かったが、やはり収容されている。