中国歴史小説の第一人者・宮城谷昌光さんのライフワークともいえる名臣列伝が、ついに『 三国志名臣列伝 呉篇 』でついに完結! あらためて三国志の世界に広がる豊かな支流の景色を綴った――。
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前漢の比類ない歴史家である司馬遷(しばせん)は、自分が書いた歴史書を編纂する上で、紀伝体、を発明した。
紀は、帝王の記録で、伝は、個々の伝記である。
長い歴史の全容を示すには、その形式がよいとおもった歴史家が多く、司馬遷の『史記』のあとにあらわれた『漢書』と『三国志』、さらに、それらより遅い成立の『後漢書』まで、その形式を襲用した。
私としては、紀伝体の伝は、河水(黄河)あるいは江水(長江)にながれこむ支流のように想われた。どの川も、支流は本流ほどの迫力をもっていないかもしれないが、それらの景色は本流のそれに劣るとはかぎらない。そういうおもいで私は『三国志名臣列伝』の「魏篇」「蜀篇」「呉篇」を書いた。私が書いたのは小説であるが、それでも司馬遷の紀伝体をまねたことになる。
紀にあたる『三国志』を「文藝春秋」本誌で十年以上も連載をつづけたが、
――書き尽くせない。
と、おもった人物が多々あった。それほどその歴史世界は奥が深い。そこで 「オール讀物」 の誌面を借りて、名臣とおもわれる個を掘り下げさせてもらった。
曹操は明晰な知略で魏国を建国したが…
まず想ったことは、曹操(そうそう)が建てた国である魏には、人材が豊かである、ということである。すぐれた人物を多く得た者が、最終的には勝つ、と曹操が考えていたことは、容易に想像がつく。この曹操の人材蒐めがなかったら、後漢末の董卓(とうたく)の専横からはじまる戦乱は、ずいぶん味気無いものになっていたであろう。曹操の時代からさほど離れないで正史『三国志』を書いた陳寿(ちんじゅ)は、曹操をこう評している。
「漢末に、天下は大いに乱れ、英雄豪傑が並び起った。そういうときに袁紹(えんしょう)は四州を得て、天下を虎視し、その盛強さにかなうものはいなかった。魏の太祖である曹操は、籌(はかりごと)をめぐらせ、謀計を展開して、天下を鞭撻した。戦国時代の名臣である申不害(しんふがい)や商鞅(しようおう)の法治の方法を採り、韓信(かんしん)、白起(はくき)といった名将の奇策を借り、才能のある者を官に就け、その器量の大小によって働かせた。感情をあらわにせず、計算にまかせ、旧悪を念わずに用いた。ついに天子の政治を総覧し、洪業を成し遂げられたのは、ただその明晰な智略がもっともすぐれていたからである。非常の人、超世の傑というべきであろう」
陳寿は蜀の人として生まれ、のちに晋の人となったが、魏の創業者への評は、ずいぶん的確であるようにおもわれる。その評にあるように、曹操によって拾われたり、迎えられたりした才能は多い。ただし小説として名臣を書いてゆくうちに、曹操のくせに気づいた。
「蜀篇」の関羽(かんう)のところで書いたが、降伏した武官と文官とでは、あつかいがちがうということである。武官で要職が与えられたのは、張遼(ちょうりょう)と関羽のみで、降伏した敵将を信用しないというのが、曹操の心情的なくせであろう。