【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(8)時代と洋の東西を超えて実現した悲願 野村興児・至誠館大学長 

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吉田松陰全集を手にする野村興児・至誠館大学長=山口県萩市椿東浦田の至誠館大学・吉田松陰研究所で(関厚夫撮影)
吉田松陰全集を手にする野村興児・至誠館大学長=山口県萩市椿東浦田の至誠館大学・吉田松陰研究所で(関厚夫撮影)
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 吉田松陰は志士として、また教育者として何を後世に残したのだろうか。松陰の故郷である山口県萩市出身で、国税庁調査査察部長を経て萩市長を6期務めた後、現在は至誠館大学長と同大吉田松陰研究所長を兼任している野村興児さん(75)に聞いた。

日本一自由だった松下村塾

 「吉田松陰は日本ではかつてなかった教育を松下村塾で行っていました。というのも、そこではすべてが『自由』だったからです。規則もないし、身分の制限もない。学び方も塾生によってまちまちだし、出入りも自由。授業料を支払う義務もない。当時は規則で学生をがんじがらめにする一方、成績主義によって座る場所まで決まる-といった教育が当たり前でした。

 安政の大獄によって松陰は斬首刑に処されましたが、その3年後の文久2(1862)年の暮れ近く、朝廷からの要請に応えるかたちで幕府は安政の大獄で罪に問われた志士たちへの大赦を行う一方、大獄を主導した彦根・井伊家や越前鯖江・間部家などに対して減封や藩主隠居といった処分を科します。長州藩では翌3年春、長く士籍剥奪処分となっていた吉田家を再興すると同時に、実家の杉家に命じて松陰の書簡や意見書をはじめとする著作を藩校の明倫館に生徒たちの『読誦用』として提出させました。つまり、松陰の精神や教育を明倫館に導入したわけです。こうしたことが、長州藩が幕末維新期に主導的な役割を果たしてゆくうえで大きな転機になったと考えています」

 --長州藩と松陰の関係もそうですが、松陰と門弟たちの関係も「山あり谷あり」の観があります。

松陰死して門下一つに

 「その早い晩年、故国と藩の将来を憂い、さまざまな議論を重ねてゆくうちに松陰は過激化します。代表例が井伊直弼(なおすけ)とともに、『朝廷担当』として安政の大獄を牽引(けんいん)していた老中、間部詮勝(まなべ・あきかつ)に対する襲撃計画でした。『松下村塾四天王』に数えられた高杉晋作や久坂玄瑞をはじめ、多くの塾生たちは松陰とは意見を異にします。そんななか松陰は江戸・伝馬町牢屋敷に移送された後、『自分が死ねば晋作をはじめ、松下村塾生の志は定まることになる』といった内容の手紙を当の晋作に書き残していますが、その通りになりました。師の非業の死以降、ちりぢりになっていた塾生たちは再結集し、明治維新への道を切り拓(ひら)いてゆきます。それを可能にしたのは松陰の『死』であると同時に『生きざま』-いわば彼の教育そのものであったと考えています」

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