小林 明
1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第25回は、かつては地味な印象の駅だったが「りんかい線」などが接続し、一大商業地へと変貌をとげた大崎。タイトルの(JY24)はJR東日本の駅ナンバー。
軍用連絡線の分起点としてスタート
1894(明治27)年、日本は日清戦争に突入した。戦時下では物資のスムーズな輸送が不可欠なため、大日本帝国政府は私鉄の日本鉄道品川線から東海道方面の大井連絡所(大井町駅付近)へと物資を運ぶ軍用連絡線を設置した。
連絡線に置かれた分岐点が、大崎駅の始まりである。それが正式な貨物線駅として1901(明治34)年2月25日に開業する。都心からそれほど離れていないが、広い土地があり、目黒川の水利に恵まれていたことから、近辺は官営工場が立ち並ぶ工業地帯だった。
駅の開業を機に民間企業も続々と進出。明電舎や日本精工、星製薬などが本社工場を構えていった。
1909(明治42)年には山手線の駅に編入されたが、長らく「工員さんが通勤で利用する駅」としての性格が強く、一般の人にはなじみの薄い駅だった。
昭和初期の東京市公報『新東京プロフィル』という記事には、「品川町から隣りの大崎町に入ると、いきなり耳がガァンとなる。街自体が巨大な楽器のように我鳴りたてている。低地の大小無数の工場からわき起る音響がワァンと空に響く」とある。大崎には昭和40年代頃まで、このような印象があった。
それが昭和末から平成に入ると再開発がスタートし、本社機能だけを大崎に残し、工場を郊外や地方に移転させる企業が相次いだ。
代わって大崎ニューシティ、ゲートシティ大崎などの大型施設が誕生し、現代的なビジネス街に生まれ変わった。
鉄道好きの人にとっては、大崎駅は「山手線の車庫がある駅」の印象が強いかもしれない。大崎駅に隣接する形でJR東日本の東京総合車両センターがある。品川で乗り換えるつもりが、「大崎」止まりがホームに滑り込んできて、焦った経験がある人も多いのではないだろうか。オフピークの時間帯には一部の電車を大崎止まりとして車両センターに入庫させ、環状線内をグルグル回る電車の本数を調整している。