“問題作”を描いて処分「山東京伝」の凄い実力 大田南畝も絶賛、のちに小説や歌舞伎の世界にも影響を及ぼす


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■「手鎖50日」の処分が下された山東京伝

 天明7(1787)年、11代将軍・徳川家斉のもとで、老中首座に抜擢された松平定信は「寛政の改革」を断行。寛政2(1790)年には「出版統制令」(しゅっぱんとうせいれい)を発布している。

 遊郭での遊びを描いた「好色本」を絶版したり、徳川家に関する記述を禁止したりする動きは、8代将軍の徳川吉宗の頃からあったが、定信はさらに出版規制を強化。幕政を批判したり、風紀を乱したりする書物については、その書き手まで処罰されることとなった。

 取り締まりが行われて、版元の蔦屋重三郎には、身上に応じた重過料(罰金刑)が科せられることになった。原因となった書物を書いた作者は「手鎖50日」(てじょうごじゅうにち)といって、鉄製の手錠をかけたまま自宅に50日間謹慎するという刑に処されている。

 その作者とは、戯作者・山東京伝である。どんな人物だったのだろうか。

 北尾重政といえば、蔦重が初の出版本となる『一目千本』(ひとめせんぼん)で絵を担当した人物である。

 まだ駆け出しの蔦重の依頼を快諾するくらいだから、面倒見のよい男だったのだろう。門下生も多く、「鍬形蕙斎」(くわがた・けいさい)の名でも知られる北尾政美(まさよし)や、全身像の美人画を得意とした窪俊満(くぼ・しゅんまん)などを輩出している。山東京伝と年が近く同門にあたる北尾政美は、京伝の黄表紙に挿絵を描くこともあった。



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