「ちょっと男子! ちゃんと掃除してよ」「それってあなたの感想ですよね」
小学生までもが虜になるひろゆきの論破力。その凄まじい威力を称え、彼を論破王と呼ぶ者も……。戸谷洋志さんの著書『詭弁と論破 対立を生みだす仕組みを哲学する』(朝日新書)は、「論破力」を徹底的に分析し、その危険を論じている。
今回は、ひろゆきを王たらしめる論破力の正体について、本作から抜粋・再編集して掲載する。
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■美徳としての論破力
なぜひろゆきは、明らかに不利な条件のもとで、相手を論破することができるのだろうか。
彼は、論破の「必須アイテム」として、さしあたり「論理」と「事実」を挙げている。どれほどしっかりとした論理に基づいていても、そこで語られている事実が虚偽であれば、相手を説得することなどできない。あるいは反対に、たとえ事実に基づいて何かが語られるのだとしても、論理が破綻していれば、同様に説得力のある主張をすることはできない。したがってこの二つは、説得において欠かすことができない条件なのである。
ただし、こうした論破のための材料が揃っているのだとしても、誰に向けて語るのかを見誤れば、それを有効に活かすことはできない。そして興味深いことに、相手を論破しようとするとき、自分が論破しようとする相手に向けて何かを語ることではなく、その議論の勝敗を判定する権威を持つ者に対して語らなければならない、と彼は主張する。
要するに、「論破力=説得力のある話し方」なのですが、その説得力をどう高めるかというのは、議論している直接の相手に対してではなくて、議論を見聞きしている周りの人に対して高めていくものなのですね。
話している論理や事実がちゃんとしているのと同時に、それを見聞きしている周りの人たちに、「この人が言っていることは正しいんだ」と思わせるような「印象」を与えること。それがおいらの言う「論破力=説得力のある話し方」です。
ひろゆきは、相手を論破するとき、相手に向かって語っているのではない。彼が本当に説得しようとしているのは、その議論をジャッジしている第三者なのである。