1989年6月、中国の首都・北京は異様な空気に包まれていました。当時、北京の日本大使館に警察庁から出向し一等書記官として勤務していた南隆氏は、現場の情報収集のため天安門広場に足を運んでいました。広場には「100万人デモ」とも称される多くの学生や市民が集結し、「民主」や「自由」を強く求めていました。
1989年、天安門広場に集まり民主化を求める学生や市民の大規模デモの様子「戒厳令」が発令されると多くの市民はいなくなりましたが、自由を求める学生運動家らと当局との衝突への懸念は日増しに高まっていきました。あれから36年が経過し、南氏は当時を振り返り、「日本を筆頭とする西側諸国は、中国が天安門事件を教訓に改革開放政策を推進すればいずれ民主化すると信じていたが、それは中国を見誤っていた」と語ります。1989年から約3年間、大使館員として中国の激動期を肌で感じた南氏が、当時の状況と現在の見解を語りました。
目撃した「革命前夜」の緊張
天安門広場周辺の緊迫した様子は今でも鮮明に記憶に残っています。私は毎日昼夜2回、広場へ赴き、100万人参加とも言われた学生を中心とする民主化要求デモを観察していました。しかし、5月20日に「戒厳令」が発令されると、付和雷同の一般市民は一斉に姿を消し、数千人の中核的な学生運動家らが人民英雄記念碑周辺に集結しました。この日以降、中国の警察にあたる公安要員の数が日々増強され、夜には天安門広場で繰り返し「戒厳令」の警告放送が流されるなど、不気味な緊張感が高まっていきました。
衝突前夜に起こった事態
6月2日の夜には、北京中心部の交差点などで治安部隊の侵入を阻止しようとする市民グループが集結していました。深夜になり、天安門広場へ向かって行軍する非武装の軍の一団を目撃しました。その数は5000人を超えていたと思います。この一団が天安門近くの北京飯店周辺でデモ隊と対峙し、まさに一触即発の状態となりました。海外メディアがカメラを回そうとした直後、軍とデモ隊の衝突に発展しました。また西単付近では、私服の軍人を乗せたバスがデモ隊に止められ、車内から軍人が持っていた拘束器具などが奪われる事態も発生しました。現場には怒号が響き渡り、まさに「革命前夜」の様相でした。しかし、この2日に起きたデモ隊と非武装兵士の乱闘は、翌日の流血弾圧を正当化するための当局側の「謀略」であったというのが通説です。つまり、デモ隊を「反革命暴乱分子」とすることで、流血による弾圧を正当化しました。
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36年後の見誤りへの省察
南氏は、天安門事件から36年が経過した現在、当時の日本を含む西側諸国の中国に対する見方には誤りがあったと指摘します。多くの国が、事件を教訓とした改革開放政策の推進が、いずれ中国の民主化につながると楽観的に信じていました。しかし、それは中国共産党の本質と、民主化に対する真の意図を見誤った結果であると語っています。
この経験は、現代の中国を理解する上で重要な示唆を与えています。