吉原でその名を知られた最高位の花魁、誰袖。高い教養と美貌を兼ね備えた彼女は、旗本の土山宗次郎に見請けされるほどの存在でした。しかし、土山の上司であった田沼意次が失脚すると、二人の運命は思わぬ方向へと急転します。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」にも登場し、その存在感を示している誰袖ですが、史実ではどのような人物だったのでしょうか。また、吉原とロシア、そして田沼意次の政策がどのように交錯したのでしょうか。
大河ドラマ「べらぼう」で誰袖を演じる福原遥さん 東京ガールズコレクション登場
大河ドラマ「べらぼう」で描かれる誰袖の姿
ドラマ「べらぼう」では、田沼意次が側近の提案を受け、蝦夷地を幕府直轄領としロシアとの交易を目指す場面が大きく描かれています。そして目的達成のため、様々な策を講じることになります。この壮大な計画を進める中で、意外な形で存在感を示したのが、福原遥さんが演じる大文字屋の花魁、誰袖でした。
意次は蝦夷地に眠る金山や銀山に着目し、そこを直轄地として交易で幕府が大金を得ることを画策します。そのためには、蝦夷地を管轄する松前藩の領地を召し上げる必要がありました。そこで意次の嫡男である意知は、松前藩の「落ち度」を探すことになります。
意知がまず向かった先が吉原でした。平賀源内の片腕だった平秩東作から、蝦夷地に詳しい人物として紹介された勘定組頭の土山宗次郎が花見会を開くため、意知は変装して「花雲助」と名乗り、その場に参加したのです。花見に続いて開かれた酒宴の席には、土山の横に誰袖の姿がありました。彼女は土山の馴染みの女郎だったのであり、この二人は史実でも馴染みどころではない関係へと発展します。
策士か、一途か?ドラマと史実の誰袖
ドラマでの誰袖は、土山の隣にいながら、意知(花雲助)に目を奪われ、彼に近づこうとします。意知が、松前藩の元勘定奉行・湊源左衛門との密談で、藩主の横暴や藩ぐるみでの抜け荷(密貿易)の話を聞き出している最中、誰袖はその話を十文字屋の者に盗み聞きさせていました。
後日、田沼屋敷に呼ばれた土山は、意知に誰袖からの手紙を渡します。そこには話したいことがあると書かれていたため、意知は再び花雲助に扮して大文字屋を訪れました。そこで誰袖は意知に対し、吉原に出入りする松前藩関係者や、松前藩の下で取引される商品の情報を提供すると持ちかけたのです。
意知が「間者の褒美は金がほしいのか」と問うと、誰袖はこう言いました。「カネよりもっとほしいものがありんす。花雲助様、わっちを身請けしておくんなし」。
ドラマに描かれた誰袖は、かなりの策略家であり、同じく花魁でありながら一途な瀬川(五代目瀬川)と比べると、比較にならないほどしたたかです。もちろん、これはドラマにおける人物像ですが、史実の誰袖も、その置かれた状況から判断すると、かなりの策謀家であった可能性も示唆されます。吉原という厳しい世界で最高位に上り詰めるためには、美貌や教養だけでなく、したたかさも必要不可欠だったのかもしれません。
花魁としての教養:誰袖と狂歌
誰袖が単なる遊女ではなく、相応の教養を身につけていたことは史実でも確認できます。ドラマでも、大文字屋の楼主である市兵衛(伊藤淳史さん演じる2代目)のもとで狂歌を詠む姿が描かれました。この2代目市兵衛は、病死した初代の後を継いだ同姓同名の人物で、狂歌が大流行した天明年間(1781〜89年)を代表する狂歌師の一人、「加保茶元成」としても知られています。彼は、蔦重こと蔦屋重三郎らとともに「吉原連」という狂歌のグループを結成し、自ら主宰するほどでした。
大文字屋の最高位の花魁である誰袖が、こうした狂歌の第一人者である楼主から手ほどきを受けていたとしても、なんら不思議はありません。実際に、誰袖が詠んだ歌は、天明3年(1783年)に四方赤良(大田南畝)らが編纂した『万歳狂歌集』に収められています。
その歌は、忘れようとしても愛しい人の面影が募る切ない恋心を詠んだものです。
わすれんと/かねて祈りし/紙入れの/などさらさらに/人の恋しき
(忘れようと、以前から祈り続けていたのに、彼からもらった紙入れを見ると、どうしてこんなにもいよいよ人が恋しくなるのだろうか)
この歌からも、誰袖に確かな狂歌の素養があったことがうかがえます。彼女は美貌だけでなく、知性や芸術的な才能も兼ね備えた、まさに吉原の最高位にふさわしい花魁だったと言えるでしょう。
吉原の最高位花魁として多くの人を魅了した誰袖。その生涯は、一見華やかながらも、時代の大きな流れ、特に田沼意次のような権力者の動向に翻弄される側面も持っていました。ドラマ「べらぼう」での登場は、彼女の存在を現代に改めて問いかけ、歴史と文化の交錯点に光を当てています。教養と才覚を持ち合わせ、激動の時代を生き抜いた誰袖の物語は、今なお私たちに多くの示唆を与えてくれるでしょう。