〈昭和54年に25歳でデビュー。その直前に上京し、「大阪で生まれた女」がヒットし有名になったが、約10年後の平成2年、大阪に戻った〉
父親が肺がんになりまして。看病とか、病院の送り迎えをしなくてはならなくて、東京を引き揚げました。大阪に戻るのは大きな決断でしたが、自分は「全国区」になっていると思いましてね。関西にいるとちょっと不利だと思ったのですが、反対にこちらでやり続けることによって、東京からみんなが見にくるような環境を作ろうと思いました。
〈BOROがデビューした同じ年、大阪出身の桑名正博が「セクシャルバイオレットNo.1」、翌年には、神戸で育ったもんたよしのりが「ダンシング・オールナイト」の大ヒットを放った。そして、「酒と泪と男と女」(昭和51年)の河島英五、「悲しい色やね」(57年)の上田正樹、「やっぱ好きやねん」(61年)のやしきたかじんと、関西出身のミュージシャンが相前後してヒット曲をリリースし、存在感を発揮した〉
あの当時はだれも分かってなかったですが、今思えば、とんでもない時代のうねりだったのだと思います。この関西で相次いで「才能」が生まれました。
交友はありましたよ。上田正樹さんは(学年で)4つ上で、いまは「キー坊」なんて呼んでますけど、尊敬しています。英五は2つ上、正(まさ)ヤン(桑名)は同学年でともに年が近い。このあたりは親友ですね。デビューしてすぐくらいに2人とも会ってますね。テレビ・ラジオの番組か、イベントで一緒になって。初めて会ったときから“タメグチ”で友達感覚です。
桑名正博はデビュー当時は東京にいましたね。東京でよく会ってました。ライバル心なんか、まったくないですね。不思議なくらい。正ヤン、友達というか、兄弟みたいでした。おやじさんが死んで、おやじさんが経営していた会社の社長になりました。でも似合いませんでしたね。スーツ着てネクタイしめて、大正時代のおっさんみたいでした。「こんなとこに座っているヤツ違うだろ」と思ってましたけどね。
河島英五はずっと関西でしたが、東京でも会っていた。会ってしゃべって。ぼくは酒飲まなかったけど、英五たちは酒を飲んでいて、そのうちできあがって。そうすると、ぼくは「少年は帰るよ」って言って帰っていくのです。会えば一緒に音楽やりました。次から次へと音楽が出てくるんですね。夜を徹することもありました。
またあるときは、ぼくが詩作の話を延々と哲学みたいに語り、英五や仲間はそれをおもしろがって聞いていました。「何考えてんねや、考えていることを聞かせろ」と。(聞き手 松田則章)=次回は12月2日