NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」において、老中・田沼意次(渡辺謙)を支える息子、田沼意知(宮沢氷魚)の存在感が高まっています。この記事では、ドラマでの描写と歴史上の田沼意知がどのような人物だったのかを解説します。特に、家督を継ぐ前の立場でありながら、なぜ大名に匹敵する位階と重要な役割を与えられていたのか、そしてその能力と世間での評判について深掘りします。
田沼意知は、寛延2年(1749年)に生まれ、天明2年(1782年)ごろの「べらぼう」第22回(6月8日放送)の時点では数え34歳でした。当時の田沼家の当主は父である意次であり、意知はまだ家督を継いでいない「部屋住み」という立場でした。にもかかわらず、この時期にはすでに相当な権勢を握っていたとされます。
ドラマでは、意次が蝦夷地(北海道)を幕府直轄領とし、その豊富な資源(金銀など)を利用してロシアとの交易を目論む場面で、意知が準備のための調査を自ら買って出る姿が描かれました。蝦夷地は松前藩が管轄しており、直轄領化には松前藩の領地召し上げと権利剥奪が必要です。意知はこのための調査と工作を担当します。
第22回では、松前藩の「抜け荷」(密貿易)の証拠を掴むために、意知は様々な策を講じます。松前藩の元勘定奉行である湊源左衛門(信太昌之)から抜け荷取引の場所を示す地図があると聞くと、勘定組頭の土山宗次郎(栁俊太郎)にその調査を任せます。自身は吉原にも足を運び、抜け荷の痕跡を探りました。大文字屋の花魁、誰袖(福原遥)も証拠集めに奔走し、大文字屋を訪れた松前家江戸家老の松前廣年が琥珀の腕飾りをしているのを見逃しませんでした。誰袖はその腕飾りを手に入れ、「松前公の弟君の腕飾り。オロシャ産の琥珀という石。抜け荷の証しにござりんす」という手紙とともに土山に渡し、それが意知のもとに届けられます。
大河ドラマ「べらぼう」で田沼意知を演じる宮沢氷魚
しかし、ロシア産の腕飾りだけでは抜け荷の直接的な証拠にはなりません。松前廣年がロシアと直接取引した証拠が必要です。意知は「花雲助」という忍び装束で吉原に出向き誰袖にその旨を伝えますが、誰袖は廣年をけしかけて抜け荷をさせれば良いと提案します。誰袖のしたたかさに触れた意知は、自らの正体を明かし、「見事抜け荷の証しを立てられたあかつきには、そなたを落籍いたそう」と約束し、協力を取り付けます。
さらに意知は、蔦屋重三郎(横浜流星)にも自分が何者であるかを明かし、蝦夷を天領にする計画を打ち明けます。「最後に源内殿も口にしておった試みだ。どうだ、そなたもひとつ、仲間に加わらぬか?」と誘いをかける場面もありました。
このように、ドラマでは意知が父の重要な政策を推進するために、老練な家臣や商人を相手に大胆かつ緻密な工作を行う有能な人物として描かれています。
歴史上の田沼意知は、家督相続前に異例の出世を遂げ、大名並みの格式と役職を与えられていました。これは父・意次の権勢の強さを示す一方、意知自身の能力の高さもあったと考えられます。しかし、冒頭で触れたように、彼の能力は高かったものの、世間からの評判は必ずしも良くはなかったと伝えられています。家督継承が確実視されていた矢先に不慮の死を遂げるなど、波乱に満ちた生涯を送りました。
ドラマ「べらぼう」での田沼意知の活躍は、彼の歴史上の立ち位置や父との関係性を描く上で重要な要素となっています。家督前の部屋住みという立場ながら、幕政の中心に食い込み、大きな影響力を持っていた彼の姿は、当時の田沼時代の特異性を象徴していると言えるでしょう。
参考資料:
- PRESIDENT Online (Yahoo!ニュース 配信)