メディア激変時代の日本社会:衰退する「国民化」機能と戦間期アナロジー

かつて、通勤電車の車内で見られた光景は、新聞紙を折りたたんで読む人々の姿だった。しかし現代では、多くの世代がスマートフォンを手に、マンガやアニメ、動画、ゲームといった「サブカルチャー」を楽しむ様子が一般的になっている。

メディアの「栄枯盛衰」は世の常であり、特定の基軸メディアがいつまでも影響力を保つとは限らない。メディア史を専門とする上智大学文学部教授の佐藤卓己氏は、かつて新聞が各家庭に一部購読されていた状況は戦前の日本には見られず、1960年代から90年代という限られた時代のものであると指摘する。そのノスタルジーを基にマスメディアの未来を論じることの適切さには疑問を呈する。一方で、かつて大きな影響力を持っていた基軸メディアの衰退を不安視する読者も少なくないだろう。こうした状況は社会にどのような影響をもたらすのだろうか。佐藤氏は基軸メディアの中でも「テレビこそ最後の国民化メディア」だとし、その機能の変化に警鐘を鳴らす。

スマホを眺める現代の通勤風景とメディアの変化スマホを眺める現代の通勤風景とメディアの変化

インターネットは国境を越えたグローバルメディアであると同時に、個々人の関心に応じて細分化・最適化されたメディアでもある。これに対し、テレビ(受信料で成り立つNHKを除く)は、多くの国民に共通の情報を無料で提供するセーフティーネットとしての機能を有してきた。戦後、テレビ放送は日本社会のあり方を大きく支えてきたと言えるが、近年若者を中心としたテレビ離れが進み、インターネットの情報空間に国民生活全体が深く入り込んでいる状況にある。この観点から、最後の国民化メディアとしてのテレビの役割を真剣に再考する必要があると佐藤氏は述べる。「国民化」とは具体的にどのような意味を持つのか。これを理解するためには、テレビが基軸メディアとなる前の戦前に「日本初の100万部発行雑誌」となり、「大衆を国民化」したとされる雑誌『キング』の歴史的意義を振り返ることが有益だ。

基軸メディアの変遷と「国民化」機能

今年のラジオ放送開始100周年と同じく、雑誌『キング』も1925年に創刊された。大日本雄弁会講談社(現・講談社)創業者の野間清治は、「日本一おもしろい、日本一為になる、日本一安い雑誌」というスローガンを掲げて『キング』を世に送り出した。

佐藤氏は『キング』が果たした役割を高く評価している。『キング』は小説や論説、小話、マンガ、時事解説から映画・芸能情報まで、多岐にわたる雑多な情報を盛り込みながらも、家族内で安心して回し読みされるような内容だった。一部の知識人からは批判的な声もあったものの、『キング』を読むことは、性別、年齢、階層、地域が異なる多くの大衆が、共通の「国民的教養」を共有しているかのような感覚をもたらし、国民国家に「参加」しているという安心感と満足感を与える役割を果たした。しかも、『キング』はラジオ受信契約数よりも早く発行部数100万部を達成し、「大衆の国民化」を推進した日本初のメディアとなったのだ。

戦前「大衆の国民化」を推進した雑誌『キング』の表紙戦前「大衆の国民化」を推進した雑誌『キング』の表紙

『キング』はテレビ放送開始から4年後の1957年に終刊を迎えた。これは、『キング』が担っていた役割がテレビへと引き継がれたと捉えることもできる。しかし現代は、かつての『キング』やテレビが果たしたような「国民国家に参加している」という感覚や、国民が共有する「共通言語」が失われつつある時代とも言える。

失われつつある「共通言語」と「戦間期」のアナロジー

こうした状況をさらに複雑にしているのは、現代の時代性が、1920年代から30年代にかけての「戦間期」と多くの点で類似していることである。日本近現代史を専門とし、帝京大学学術顧問を務める筒井清忠氏は、「現代は、第一次世界大戦後のワイマール共和国末期に似つつあり、深刻な状況にある」と警鐘を鳴らす。

世界で最も民主的な憲法を持ちながらも、言論の自由や議会制民主主義といった「自由民主主義」を否定する「全体主義」が台頭したワイマール共和国末期と現代とのアナロジーについては、これまでも指摘されてきたが、いよいよ現実味を帯びてきていると筒井氏は述べる。

現代社会における過激化と「大衆の原子化」

筒井氏はその兆候の一つとして、政党による街頭パフォーマンスの過激化を挙げる。かつてワイマール共和国では、ナチスもドイツ共産党も「暴力組織」を持ち、激しく対立した。白昼の街頭で暴力的な衝突が堂々と繰り広げられ、大衆の耳目を集め、引き付けていたのである。現在の日本では、政党間の暴力沙汰は起きていないものの、候補者の演説を妨害したり、選挙カーを追尾して拡声器で罵声を浴びせるといった、街頭活動のパフォーマンス化と過激化が見られる。昨年の東京都知事選や兵庫県知事選でも類似の現象が確認された。かつて安倍晋三元首相が2017年の東京都議選の応援演説中に聴衆からの批判的なヤジに対し「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」と強い口調で応じたことがあったが、あのような対立の姿勢が続けば、今後、政党やそれに煽られた大衆が暴力的な行動に至る可能性は否定できないと筒井氏は危惧する。

さらに、社会の中で孤立した個人が、大規模な集団に容易に取り込まれやすいという「大衆社会」の特色が、いま再び強まっている点も見過ごせない。筒井氏は大衆社会論の見直しが必要だと説く。大正から昭和初期にかけての時代は、前近代から大衆社会へと移行が始まった時期であり、多くの人々が地方から都市へと移住した。また、近代社会は憲法によって個人の権利や尊厳が認められ、自由を得て様々なことに挑戦できるようになった一方で、自己責任も大きくなった。しかし、家族や親戚、隣人といった従来の人間関係の「紐帯」が弱まっているため、成功できなければ個人は孤立し、不安を抱えるようになる(個人の原子化)。そうした孤立した個人に対し、救いの手を差し伸べるのが、特定のカリスマ的人物を持つ大規模な集団である。つまり、原子化された個人は、大集団に統合されやすい側面を持っているのだ。この大衆社会の基本的な特徴は現代でも変わらず、特にSNSが発達した現代は、こうした大集団にとって、かつてないほど有利な時代になっていると筒井氏は分析している。

メディア環境の激変は、単に情報伝達の手段が変わるだけでなく、社会全体の共通基盤や個人のあり方、そして政治状況にまで影響を及ぼしている。かつてメディアが担った「国民化」の機能が衰退する中で、現代社会が抱える孤立や分断といった問題は、歴史上の困難な時代と不気味な類似性を示していると言えるだろう。