長嶋茂雄さん逝去、高田文夫氏が語る「長嶋小僧」の思い出とエピソード

永久に不滅だと信じられていたミスターこと長嶋茂雄氏が他界した。多くの人々が寂しさと切なさを感じる中、放送作家、タレント、演芸評論家、そして高座にも上がる高田文夫氏は、太陽のような存在だったミスターを明るく見送りたいと語る。6月3日に長嶋氏が逝去した翌日、4日付の読売新聞1面「編集手帳」では、“日本一の長嶋小僧”を自称する高田氏のことが記された。「高田さんの家には膨大な長嶋さん語録がある」という記述には、真実もあればリップサービス、さらには『オールナイトニッポン』でビートたけし氏と高田氏が創作したエピソードも含まれる。それら全てが、高田氏にとっての「僕らのミスター」なのだという。

高田文夫氏による長嶋茂雄さんの思い出のイラスト高田文夫氏による長嶋茂雄さんの思い出のイラスト

天覧試合での運命的な誕生日プレゼント

高田氏にとって、長嶋茂雄という存在は11歳の誕生日に強く結びついている。1959年6月25日、その日11歳になった高田氏は、当時誕生日を祝う習慣が一般的ではなかった時代に、一人ぽつんと野球中継を見ていた。午後9時を回り、「そろそろ寝なければ」と思ったその時、分厚いブラウン管のテレビから「打った、打った。長嶋天覧試合、さよならホームラン」という実況が響き渡った。その瞬間、「神様はここにいた!」と感じたという。誰も祝ってくれない中、長嶋氏が自分だけのためにサヨナラホームランを打ってくれた、まさに誕生日プレゼントだと心底思ったのだ。偶然にも同じ日、京都で11歳になった沢田研二氏も、テレビの前で飛び跳ねていたという。一方で、打たれた阪神タイガースの村山実投手は肩を落としていた。自分の誕生日のために、生で天覧ホームランを見せてくれる人物など他にいるだろうか。この出来事以来、高田氏は長嶋氏を神様だと思って生きてきた。「昭和100年」とは「長嶋のさよなら」だった、と彼は表現する。

記憶に残るミスターのエピソード

「長嶋小僧」は時を経て成長し、働き、家庭を持ち、孫もできた。その間、長嶋氏の闘病生活にも励まされてきた。享年89歳。一方の高田氏は、この6月で77歳になるという。長嶋氏に関する記憶は数多く、中には真偽不明ながらも語り継がれる有名な(あるいはたけし氏と高田氏が創作した)エピソードがある。

  • 長嶋氏が審判に「代打、元木」と告げた際、コーチが監督に小声で「もう(元木選手は)出てます」と伝えた。それに対し、長嶋氏は元木選手を呼び寄せ、「いいか、打つと見せかけてヒッティングだ」と指示したという話。
  • 巨人監督に新しく就任した日、記者に「やっぱり緊張しますか?」と問われ、「しますねぇ、ホラッ毎日が巨人戦だから」と答えたという話。

さらに、ビートたけし氏が謹慎中に講談社にいた深夜、長嶋氏から電話があったというエピソードも明かされている。「タケちゃん、う~んいわゆるひとつのキンシン中。どうです、おしのびでゴルフ?たまには息抜かないと。じゃ来週の木曜日 千葉で」。当日、待ち合わせ場所でソワソワしながら早く着いたたけし氏の元に1台の車が止まり、中から出てきた長嶋氏はたけし氏を見つけると「あらタケちゃん? 今日はなに?ゴルフ?」と話しかけたという。まるでその場で初めて会ったかのような振る舞いに、たけし氏は長嶋氏の「すごい人だ」と感じ入ったという。

長嶋茂雄という野球界、そして日本社会の象徴的存在の逝去は、多くの人々にそれぞれの形で記憶されている。高田文夫氏のような「長嶋小僧」たちにとって、ミスターは単なる野球選手や監督ではなく、人生の節目に現れ、特別な瞬間をくれた「神様」であり続けたのだろう。


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