「深川通り魔殺人事件」が起きた昭和56年当時、わが国では薬物事犯の検挙数が増加の一途を辿っており、覚せい剤の第2次乱用期のピークになりつつあった。無関係な6人に刃物で襲い掛かり4人を殺害、さらに女性を人質に取って中華料理店に立てこもった川俣軍司(当時29・以下同)も覚せい剤の使用歴があった。立てこもり事件のスペシャリストである警視庁捜査第1課特殊班は、この稀代の犯罪者にどう対峙したのか――(全2回の第2回)。
機動隊にポンプ車も
昭和56年6月17日、東京都江東区の路上で女性や子ども6人を襲った川俣は、買い物帰りの主婦Xさん(32)を人質に、中華料理店に立てこもった。
Xさんは川俣にいきなり首すじをつかまれ、中華料理店の奥にある八畳間に連れ込まれた。男の人が「離せ!」と追いかけてきたが、川俣は「来ると殺すぞ! 帰れ!」と追い払い、引きずるようにしてXさんを店内に入れた。
川俣はXさんの首に包丁をつきつけながら、「人を殺してきた」と言い、すぐに「テレビをつけろ」と命令した。事件を伝えるニュースを見るため、チャンネルを次々と変えさせた。川俣は番組を食い入るように見つめていたという。また窓や入口にカギをかけさせ、窓側のタンスの近くに陣取った。午後1時すぎ、「死者2人」のテロップが出ると「やった」と唸り声をあげ、さらに同2時過ぎに「3人」、同4時過ぎには「4人」と、犠牲者の数が伝えられると、川俣はこう叫んだ。
「もう、何人殺しても同じだ!」
また、これまでに勤務したすし店などの名前をXさんに書かせて、そのメモを八畳間の外にいる捜査員に投げ渡した。店をクビになった恨みを言い、「(経営者の)夫婦でここに来い!」と要求した。
元警視庁捜査員によると、人質立てこもり事件の一番の難点は、現場周辺の住民や、取材に訪れるマスコミ関係者など、「衆人環視」の中で進行することだという。事件当日は水曜日の正午前。現場は商店街の一角であり、大勢の野次馬が現場を取り巻いた。
警視庁は捜査第一課だけでなく、野次馬の整理にあたるため、機動隊二個中隊を現場に派遣した。さらに、消火器5本に加え、午後1時過ぎには深川消防署からポンプ車も出動、放水準備をして待機した。その理由は、川俣が店内でこう叫んでいたからだった。
「近づくと女を殺すぞ。オレも死ぬ。放火してやる!」