警視庁捜査一課SIT、歴史的事件に挑む:深川通り魔殺人事件 惨劇までの道

「吉展ちゃん事件」(昭和38年3月発生)の教訓から、警視庁捜査第1課には誘拐事件を専門とする特殊班が設けられました。現在SITとして知られるこの特殊班は、誘拐事件だけでなく、ハイジャック、企業恐喝、大規模な業務上過失事件など、多岐にわたる難事件を担当します。その任務の一つが「立てこもり事件」への対応です。本シリーズ第1回で取り上げた「三菱銀行猟銃立てこもり事件」(昭和54年1月発生)では大阪府警の特殊班が対応しましたが、その2年後、昭和56年に警視庁捜査第1課特殊班が立ち向かったのが「深川通り魔殺人事件」です。白昼の住宅街で突如として発生したこの無差別殺人は、日本社会に大きな衝撃を与えました。

深川通り魔殺人事件の発生後、規制線が張られ、多数の警視庁捜査員と報道陣が集まり混乱する事件現場の様子深川通り魔殺人事件の発生後、規制線が張られ、多数の警視庁捜査員と報道陣が集まり混乱する事件現場の様子

昭和56年6月:不穏な時代の空気

昭和56年6月、日本国内ではパリで起きた日本人留学生によるオランダ人女性バラバラ殺人事件のニュースが連日報じられ、世間の大きな関心を集めていました。逮捕された佐川一政(当時32)が遺体の一部を食べたという報せは、「狂気の犯罪」として人々に衝撃を与え、不穏な空気が漂っていました。

そんな中、その2日後の6月17日午前11時30分過ぎ、中央区銀座のすし店の電話が鳴りました。前日に板前募集の広告を見て面接に来た一人の男(29)から、採用の可否を問い合わせる電話でした。

「川俣軍司さんですね?」
「おう」
「今回は、申し訳ないのですが……」
「おう、おう、おう!」

男、川俣軍司は電話を切りました。彼は約2カ月前の4月21日朝、服役していた府中刑務所を刑期満了で出所したばかりでした。中学卒業後にすし職人を目指したものの長続きせず、傷害や暴行、道交法違反、脅迫などの罪を重ね、この時が四度目の服役でした。

加害者・川俣軍司:刑務所出所から惨劇へ

二度目の府中刑務所での服役中、川俣は「同囚暴行」「職員暴言」などの反則を繰り返し、仮釈放は得られませんでした。刑期を満了し、作業賞与金を受け取って刑務所を出た彼は、まず銚子市の実家に電話をかけましたが、父親には相手にされず、兄の勤務先に電話をかけまくしたてました。

佐木隆三氏の著書『私が出会った殺人者たち』によれば、川俣は兄に対し「今回の懲役ほど苦労したことはなかった。親兄弟までがグルになり、おれをいじめる。おかげで電波・テープにひっつかれて、おれは黒幕から麻酔を打たれて殺される」などと、強い被害妄想を語ったといいます。兄から3万6000円を受け取った際、「絶対に家に近づくな」と告げられた川俣は、「家になんか、頼まれても帰ってやるものか。世間のヤツがどんなに妨害しても、おれは自分の店を持って、結婚して子供をつくる」と応じたとされています。

その後、川俣は港区や新宿・歌舞伎町、錦糸町などのすし店に応募し採用されますが、遅刻癖や威圧的な言動が周囲に受け入れられず、どの店も長続きしませんでした。そして6月17日、銀座のすし店からの不採用の電話を受け取った時、彼は江東区森下にいました。

佐木氏の同書によると、この日、失業中の川俣は前夜泊まった簡易宿泊所「タバコ屋ベッドハウス」を、ネズミ色の手提げバッグ一つを持って出ました。所持金はわずか百八十五円。バッグの中には、府中刑務所を出所した日、「心を入れ替えてすし職人としてやり直そう」と渋谷区内で購入した柳刃包丁しか入っていませんでした。

不採用の電話を切った川俣は、森下の商店街を歩き始めました。その目の前に、ベビーカーを押す母子の姿が見えたのです。

参考文献

佐木隆三著『私が出会った殺人者たち』新潮文庫