30年間にわたり、治療が難しいと診断された末期がん患者を専門とするホスピス病棟で働く医師、小澤竹俊氏は、4000人以上の患者との別れを経験してきました。その深い経験を通して、氏は「たとえどんな人生であったとしても、人は幸せになれる」という重要な学びを得たといいます。多くの人が人生の終わりに直面する中で、どのようにして心の平安や幸福を見出すことができるのでしょうか。本記事では、早く死にたいと希望された80代女性の具体的な事例を通して、その問いへの答えを探ります。小澤氏の著書『だから、あなたも幸せになれる』に記された、看取りの現場で培われた貴重な insight を紹介します。
生きる実感とは?心を閉ざした人への寄り添い方
「生きている実感がしない」。そう訴える人は少なくありません。職場に行きたくない、誰にも会いたくないと、心を閉ざしてしまう人もいます。では、どうすれば「生きている」という確かな実感を得ることができるのでしょうか?
苦しんでいる人が生きている実感を得ることは、簡単なことではありません。周囲がどんなに励ましても、その言葉が心に響かないことが多いものです。命の限りを知った人も同様です。「大丈夫」と励まされても、嬉しい気持ちにはなれない。「あなたには私の気持ちなんてわかるはずがない」と、さらに心を閉ざしてしまう人もいます。
生きていることとは、ただご飯を食べて、お風呂に入り、眠ることだけではありません。たとえ、一人でトイレまで歩くこともできず、ベッドの上でしか生活できない状況になったとしても、その人が「生きている」と感じられるために、私が大切にしてきたことがあります。それは、その人がこれまでの人生で大切にしてきたことを、今も大切にすることです。
たとえ今は、一人で歩くことも立つこともできなかったとしても、その人の人生において大切に思ってきたこと、重要だと感じてきたことを丁寧にうかがい、その思いを尊重し、大切にすること。それが、その人が自分自身の存在価値を感じ、生きる実感を取り戻すきっかけになるのです。
ホスピス医の小澤竹俊氏。30年にわたる看取りの経験を綴った書籍『だから、あなたも幸せになれる』より
「死にたい」と願った80代女性との対話
ホスピス病棟には、「早く死にたい」と強く希望されていた80代の女性患者さんがいました。彼女がそう願う理由は、もう自分で台所に立って、子どもや孫たちに料理を作ってあげることができなくなったからでした。
以前は家族のために腕を振るっていたのに、今ではベッドで寝ているだけの身体になってしまった。皆に迷惑ばかりかけている。だから、早く死んでしまいたいと、彼女はいつも私に訴えていました。
私は、彼女の言葉に丁寧に耳を傾け、これまでの人生を一緒に振り返る対話を試みました。「生きてきて、一番覚えていることは何ですか?」と尋ねると、彼女はふっと顔を上げ、笑顔で答えました。「やっぱり、料理を作ってきたことかしら」。
料理に込められた人生の喜びと教訓
彼女の人生で一番の思い出は、料理を通して子どもたちが喜んでくれた笑顔だと言いました。「私にとって子育てが一番の喜びでした。勉強はあまり教えられなかったけれど、子どもたちが笑顔になる料理を作ることが一番の喜びだったんです」。
学校から帰ってくる子どもたちのために、いつも出来立てのおやつを用意していたこと。生活は決して楽ではなかったけれど、手間暇かけて作る料理だけは楽しかったこと。そして、運動会のお弁当を子どもたちが本当に美味しそうに食べて、褒めてくれたことが、彼女にとって何よりの宝物であり、人生で一番の思い出だと語りました。
彼女が料理の思い出を語るその目は、今まで見せたことのないキラキラとした輝きを放っていました。料理を作ることを通して、誰かが喜んでくれることを人生で最も大切にしてきたその人生をうかがう中で、私は同時に、今、台所に立つことができない彼女の深い苦しみも感じ取りました。
大切にされた人生を家族へ伝えること
彼女が料理に込めてきた愛情や工夫、そしてそこから学んだ人生の教訓を、今の子どもたちやお孫さんたちに伝える機会を設けてみてはどうかと、私は提案しました。
すると、彼女はこれまで創意工夫して作り上げてきた料理のレシピや、料理を通して家族に伝えたかった思い、人生の教訓などを、子どもたちやお孫さんたちに伝えるための時間が設けられることになりました。
「迷惑ばかりかけているから、死にたい」とまで思い詰め、自分自身を認めることができなかったその女性は、その日から見違えるように明るくなり、笑顔で過ごす時間が増えました。自分が人生で大切にしてきたことが、愛する家族に受け継がれていく。そのように感じられたことが、彼女に再び生きる意味と喜びを与えてくれたのです。
人間関係を良くするための言葉に関するイメージ。人生終末期における心のあり方にも通じる教えを示唆
まとめ
小澤竹俊氏のホスピスでの経験は、人が人生の最終段階においても、過去の経験や大切にしてきた価値観を認められ、それを他者と共有することで、深い充足感や生きる意味を見出すことができることを教えてくれます。特に、他者のために何かを成し遂げた経験や、家族との温かい思い出は、困難な状況にあっても自己肯定感を取り戻す力となります。「死にたい」と願うほどの絶望の中にいた女性が、料理という人生の宝を家族に伝えることで笑顔を取り戻したように、人生の終わりは終わりではなく、これまでの人生の価値を再確認し、次世代に繋ぐ大切な時間となり得るのです。この事例は、終末期医療において、単に身体的なケアだけでなく、その人の人生全体に寄り添い、心のケアを行うことの重要性を示しています。どんな状況でも、人は幸せを感じられる可能性を秘めているという希望のメッセージがここにあります。
参考文献
- 小澤竹俊 著『だから、あなたも幸せになれる』大和出版