「宗教は無関係」は錯覚?日本人の深層にある宗教観

パレスチナやイスラエルの問題、あるいは世間を騒がせるいわゆる「カルト」の問題など、近年、「宗教」がニュースで取り上げられる機会が増えています。日本では、多くの人が「自分は無宗教だ」と考えていると言われます。しかし、明治大学の美濃部仁教授は、この考えには再考の余地があると指摘します。「宗教は自分には関係ない」と思っている人の中にも、広い意味での「宗教」に対する感覚を持っている人は少なくないと言います。そのような自身の内にある感覚を自覚することは、様々な意味で重要だと、同教授は語ります。

「自分とは関係ない」という感覚、そして歌に込められた宗教性

多くの現代日本人が「宗教は自分とは関係のないもの」と考えている背景には、約30年前に発生したオウム真理教の事件が影響していると美濃部教授は分析します。あの事件以降、「宗教」から距離を置こうとする傾向が強まったように感じられる、と。

しかし、教授は、そうした人々にも「宗教的な経験」がないわけではないと考えます。その例として、今は学校の教科書にも載っているというSMAPの楽曲『世界に一つだけの花』(槇原敬之作詞作曲)を挙げます。

「どれもみんなきれい」に隠された「絶対的なもの」

この歌は、「花屋の店先に並んだ/いろんな花を見ていた/ひとそれぞれ好みはあるけど/どれもみんなきれいだね」という歌詞で始まります。

美濃部教授は、通常、「きれい」という言葉は「きれいでない」ものとの比較があって初めて意味を持つ、と説明します。例えば「長い」という言葉も、比較対象がなければその意味はわかりません。これは、言葉の意味が「相対的」であることを示しています。

そう考えると、「どれもみんなきれいで、きれいでないものはどこにもない」というような表現は、通常の相対的な言葉としては不自然です。教授は、こうした表現が使われているのは、この歌が伝えようとしているものが、通常の「意味」を超えた「絶対的なもの」だからだと考えられる、と論じます。

このように、美濃部教授は『世界に一つだけの花』が「宗教的」であると指摘します。

「世界に一つだけの花」の歌詞「どれもみんなきれい」を想起させる、店先に並べられた色とりどりの様々な花「世界に一つだけの花」の歌詞「どれもみんなきれい」を想起させる、店先に並べられた色とりどりの様々な花

歌への共感に表れる、日本人の「宗教的な感覚」

この歌に今なお多くの人が共感するのは、多くの人が自分自身の中に、こうした「宗教的」と言える感覚を持っているからではないかと、美濃部教授は推測します。

教授は、「宗教とは何か」という難しい問いを正面から扱うのではなく、私たちが「宗教的なもの」を経験していると思われる具体的な場面について、さらに考察を進めたいとしています。

結論

パレスチナ問題やカルト問題などを機に注目される「宗教」に対し、「無関係」と考える日本の多くの人々。しかし、明治大学 国際日本学部の美濃部仁教授は、人気楽曲『世界に一つだけの花』の歌詞分析などを通じ、日本人の内面に「宗教的な感覚」が存在する可能性を示唆しています。「自分は無宗教だ」という自己認識の裏側で、多くの人が共有する「どれもみんなきれい」に込められた「絶対的なもの」への共感は、日本社会における「宗教」との見えないつながりを示しているのかもしれません。

参考文献

https://news.yahoo.co.jp/articles/f4dde3ed38fed341bce8e213165338d5b2567c74