NHK朝ドラ『あんぱん』に見る日中戦争 中国人作家が語る「葛藤」と「記憶」

NHKの朝ドラ『あんぱん』を興味深く見ている。特に戦争に関する描写は、多くの感慨を呼び起こす。主人公の柳井嵩(北村匠海)が中国の福建省福州市に出征し、宣撫班に配属される場面では、「俺たちは歓迎されていない。これは本当に、東洋平和のための正義の戦争なのだろうか」と自身の立場に疑問を抱く葛藤が、丁寧に描かれている。なかでも、柳井たちが中国の人々に紙芝居を見せるシーンは印象的だった。紙芝居自体に戦争を止める力はないかもしれないが、敵味方を超えて人々の「心を動かす」力があることが示されていた。このような描き方は朝ドラとしては珍しく、戦争を見つめる視点として私には非常に斬新に感じられた。このドラマは、日中戦争下における複雑な人間関係や兵士の内面を描き出しており、中国人である私自身の歴史観や記憶にも深く響くものがある。

ドラマが描く兵士の「葛藤」と「人間性」

柳井嵩が中国で直面する現実、歓迎されないという感覚、そして自らの行動への疑問は、単なるプロパガンダではない、生身の兵士の心理を描いている。宣撫班という立場でありながらも、現地の人々との間に引かれた線、そしてその線に対する自身の葛藤は、多くの日本兵が抱えたであろう内面的な苦しみを垣間見せる。紙芝居を通じた交流は、言葉や文化の違いを超えた、人間対人間の繋がりを示唆しており、戦争という異常な状況下でも失われない普遍的な感情を描いている点が特筆される。このドラマの描写は、ステレオタイプな戦争観に一石を投じるものであり、多角的な視点から歴史を理解する重要性を改めて感じさせる。

NHK朝ドラ『あんぱん』の撮影風景か出演者。日中戦争中の中国での主人公・柳井嵩の描写に触れる。NHK朝ドラ『あんぱん』の撮影風景か出演者。日中戦争中の中国での主人公・柳井嵩の描写に触れる。

80年前、母が見た「日本兵」の姿

「1945年の真夏のある日。場所は中国福建省福州市の林浦という村。幼い少女が家で兄と一緒に遊んでいると、突然、外で『日本人が来た!』と叫ぶ声がした。二人は慌てて観音菩薩の石像が置いてある大きなテーブルのうしろに身を隠した。そこへ重い足取りが入ってくる。少女がテーブルの陰からそっと首を伸ばすと、ブーツを履いた二人の日本軍兵士の姿があった。彼らは部屋を見まわしたあと、観音菩薩の前で両手を合わせ深々と頭を下げた。少女はその敬虔な様子を目にして、初めて人間の心の複雑さを思い知らされた。そして、後年、母となってからは娘の筆者に何度もこの話を語って聞かせたものだ」

かつて『中央公論』2003年9月号に寄稿した記事「鬼がいなくなる日」で、私はこのように書き出した。いまにして思う。80年前、私の母の家にやって来たという日本兵は、もしかすると『あんぱん』の「嵩」や「健ちゃん」のような人物だったのかもしれない。そんな想像が、歴史と現在のドラマ、そして自身の記憶を不思議に結びつけるのだ。母が語ってくれた、あの時見た日本兵たちのどこか優しげな、人間らしい様子は、今も私の心に深く刻まれている。

母の記憶と異なる「戦争教育」

一方、私が中国の学校で受けてきた戦争に関する教育は、母の個人的な記憶とは全く異なるものだった。中学の地理の先生は、地図上の日本を指さして「これが小日本だ」と繰り返し蔑むように教えた。このような教育は、歴史を単純化し、一方的な善悪二元論で捉えがちである。母の記憶と、学校で教えられた歴史観との間には、大きな隔たりが存在する。この隔たりこそが、歴史の複雑さ、そして個人が体験した記憶と国家による公式な歴史認識との間のギャップを示している。

NHK朝ドラ『あんぱん』の劇中カット。戦争下での人間的な交流や葛藤が斬新に描かれる様子を示す。NHK朝ドラ『あんぱん』の劇中カット。戦争下での人間的な交流や葛藤が斬新に描かれる様子を示す。

まとめ

NHK朝ドラ『あんぱん』の戦争描写は、日中戦争という歴史的な出来事を、兵士個人の内面や葛藤を通して描くことで、従来の戦争ドラマとは異なる斬新な視点を提供している。これは、私自身の母が80年前に体験した日本兵との短い出会いの記憶、そして中国で受けた公式な戦争教育との対比を通じて、歴史認識の多様性と複雑さを浮き彫りにする。ドラマは、単なる歴史の再現にとどまらず、人間の普遍的な感情や、困難な状況下での心の動きを問いかけることで、過去と現在、そして異なる文化を持つ人々の間を結びつける力を持っていると言えるだろう。


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