朝鮮戦争75年:「忘れられた戦争」の知られざる事実2選

北朝鮮軍による韓国侵攻で朝鮮戦争が始まってから75年が経過した。この戦いは数百万人の命を奪い、今なお深い傷跡を残している。しかし朝鮮戦争は、その約5年前に終結した第2次世界大戦の陰に隠れ、「忘れられた戦争」と称されることも少なくない。米国を含む16カ国が国連軍として韓国側に、中国が北朝鮮側として参戦したこの紛争は、1953年の休戦協定によって戦闘は停止したものの、平和条約は締結されず、正式な終結には至っていない。近年の複雑な米朝関係により改めて関心を集めているものの、その歴史の中で埋もれがちな側面も多い。ここでは、朝鮮戦争にまつわるあまり知られていない事実の中から、特筆すべき2点を紹介する。

朝鮮戦争中の共産圏側陣地にて、機銃訓練に励む兵士たち(1952年7月)朝鮮戦争中の共産圏側陣地にて、機銃訓練に励む兵士たち(1952年7月)

1.米軍が一時的に平壌を占領していた事実

現在、米国人が北朝鮮やその首都である平壌を訪れることは極めて困難であり、特別な許可が求められる。だが歴史を遡ると、1950年10月から約8週間にわたり、米軍が平壌を占領していた時期があった。米陸軍の記録によれば、第1騎兵師団は同年10月19日、韓国軍部隊と共に平壌を制圧した。

米軍は直ちに占領体制を敷き、10月22日までには、当時の北朝鮮指導者である金日成主席の本部だった建物に米陸軍第8軍が前進司令部を設置した。当時の写真には、金日成の執務机の前に座る米情報将校の姿が写っており、その背後の壁にはソ連の指導者スターリン共産党書記長の肖像が掲げられていた。しかし米軍による平壌占領は長くは続かず、1950年11月に参戦した中国軍が急速に南下した結果、12月5日までには米軍部隊は平壌からの撤退を余儀なくされた。

2.第2次世界大戦の太平洋戦線を超える量の爆弾が投下された事実

朝鮮戦争を捉えた写真の多くは、長津湖や仁川における激しい地上戦の場面を映し出している。しかし、米軍が北朝鮮に与えた壊滅的な損害の多くは、容赦ない空からの爆撃によるものだった。歴史家のチャールズ・アームストロング氏が引用したデータによると、3年間に及ぶ朝鮮戦争において、米軍機が北朝鮮に対して投下した通常爆弾と焼夷弾の総量は約63万5000トンに上る。これは、第2次世界大戦中に米軍が太平洋地域全体に投下した約50万トンを上回る数字である。

当時北朝鮮にいたジャーナリスト、国際監視員、そして米国人捕虜らの証言からは、主要な建物がほぼ全て破壊された凄惨な状況が伝えられている。このため、北朝鮮当局は1950年11月までに、市民に対し住居や避難場所として穴を掘るよう指示したという。北朝鮮は爆弾による正確な犠牲者数を公表していないが、米シンクタンクのウィルソン・センター冷戦史プロジェクトは、ロシアの史料に基づき28万人以上が犠牲になったと報告している。

第2次世界大戦における日本への大規模空襲を指揮し、「戦略爆撃の父」とも呼ばれたカーチス・ルメイは、北朝鮮への爆撃について「われわれは現地へ赴いて戦い、さまざまな手段で最終的には北朝鮮のあらゆる街を焼き尽くした」と述懐している。アームストロング氏は、このような北朝鮮に対する爆撃の影響が現在にまで色濃く残っていると分析する。「北朝鮮政府は、自らが米軍機の攻撃に対して脆弱であるという教訓を決して忘れなかった。同じ状況に再び陥ることのないよう、休戦協定から半世紀にわたり、対空防衛の強化、地下施設の建設、さらには核兵器の開発を継続している」と指摘している。

朝鮮戦争はしばしば歴史の影に追いやられがちだが、これらの知られざる事実は、その戦いが朝鮮半島と国際情勢にどれほど深く、そして長期にわたる影響を与えたかを物語っている。特に大規模な空爆とその後の北朝鮮の対応は、現在の北朝鮮の軍事戦略や核開発問題の根源の一つとして、未だにその遺産を残していると言えるだろう。

出典: https://news.yahoo.co.jp/articles/286e6a293cc886cd6d784c387c5b21d80328adf7