浅間山天明大噴火の真実:江戸を襲った未曽有の天変地異と現代への教訓

火山活動が活発化している現代において、過去の大災害から学ぶべき点は多い。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でも触れられる天明の浅間山大噴火は、単に江戸に灰を降らせただけでなく、その規模と被害は想像を絶するものだった。作中に登場する版元・蔦屋重三郎(1750〜1797年)が噴火による降灰をビジネスチャンスと捉える描写があるが、実際の天明大噴火(1783年)は当時の人々にとって極めて凄惨な出来事であり、その全貌を正確に理解することは現代の災害対策においても重要である。当時の史料は、この未曽有の天変地異が生々しく記録している。

浅間山天明大噴火の様子を描いた図屏風:浅間山夜分大焼之図浅間山天明大噴火の様子を描いた図屏風:浅間山夜分大焼之図

噴火の始まりと徐々に増す活動

天明3年(1783年)、蔦屋重三郎が33歳の年、浅間山の噴火活動が始まった。諸説あるが、4月8日あるいは9日に最初の噴火が記録されている。突然立ち上った煙が四方を覆い、大地が鳴り響いた。現在の群馬県嬬恋村をはじめとする近隣地域では、家屋の戸や障子が激しく振動し、地震かと錯覚するほどの揺れが続いたという。人々は当初雷や地震かと思ったが、浅間山から立ち上る黒煙を見て、それが噴火であることに気づいた。

この4月の噴火は比較的「中規模」とされたが、その後活動は活発化していく。5月26日には2度目の爆発が発生。今回は前回とは異なり、天まで届くかと思われるほどの巨大な噴煙が上がった。再び大地は激しく鳴動し、噴煙からは大量の灰が各地に降り注いだ。これにより、草木は白く覆われ、馬に与える草も灰を洗い落とさなければならず、農民は大きな苦労を強いられた。

拡大する被害と関東諸国への降灰

6月18日には3度目の噴火が発生し、嬬恋村には小石が降り積もった。さらにその10日後には再び大きな噴火があり、大地は頻繁に鳴動した。火口からはさらに勢いを増した黒煙が立ち上り、山中からは不気味な赤い稲妻が走り出した。この恐ろしい光景を目の当たりにした地元の人々は、身の毛がよだつほどの恐怖を感じ、冷や汗を流し、気絶しそうなほどの精神状態に陥ったと伝えられている。

噴火活動は7月に入っても続き、信州、上州(群馬)、相州(神奈川)、武州(東京・埼玉)、野州(栃木)、常州(茨城)など、広範囲の関東諸国に大量の灰が降り注いだ。灰だけでなく、場所によっては軽石も多く降り積もり、被害は拡大していった。

天明噴火で軽石や灰が降り注ぐ中、逃げまどう人々:浅間山焼昇之記より天明噴火で軽石や灰が降り注ぐ中、逃げまどう人々:浅間山焼昇之記より

天明の大爆発とその壊滅的な影響

これまでの噴火活動だけでも当時の人々の恐怖は十分想像できるが、事態はこれで終わらなかった。天明3年7月6日、7日、そして8日にかけて、それまでとは比較にならない規模の「大爆発」が発生したのである。その爆発のすさまじさ、そして大地を揺るがす鳴動の激しさに、往来の人々はただただ呆然とし、空を見上げて「胸をひやす」(胸をなでおろすのではなく、恐怖で心が冷える)のみだったという。自然の圧倒的な猛威を前に立ち尽くす人々の様子がうかがえる。この未曽有の事態に、神棚に燈明を上げて祈る者も少なくなかった。この一連の大噴火は「天明大噴火」として日本の災害史上特筆される出来事となり、特に7月8日に吾妻火砕流(鎌原火砕流)が発生し、群馬県鎌原村を壊滅させるなど、周辺地域に壊滅的な被害をもたらした。江戸川には群馬方面から犠牲者の体がバラバラになった状態で流れてきたという記録もあり、その被害の凄惨さを物語っている。

天明の浅間山大噴火は、現代の火山活動や大規模災害への備えを考える上で、極めて重要な歴史的教訓を与えてくれる。当時の人々が経験した絶望的な状況、そして自然の力に対する無力さを理解することは、来るべき災害にどのように向き合うべきかを考える一助となるだろう。過去の悲惨な出来事から目を背けず、その教訓を得て活用することが、より良い未来につながるのである。

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