ペテロ:弱き人間が築いたキリスト教の礎石とは?

今年5月、レオ14世が第267代ローマ教皇の座に就き、ローマカトリック教会に新たなリーダーが誕生しました。しかし、はるか昔、この教会の事実上の「初代リーダー」とも言える人物が、実は驚くほど人間味あふれる、時に「残念」とさえ評される男だったことをご存知でしょうか。過剰なまでの自信、そして決定的な裏切り。弱さを抱えながらも、イエス・キリストが彼に重要な役割を託したのはなぜだったのでしょうか。本稿では、聖書に登場する使徒ペテロの知られざる側面とその深遠な意味に迫ります。

キリスト教の礎を築いた使徒ペテロの特異性

イエス・キリストには多くの弟子がいましたが、その中でも特に重要な位置を占めていたのが使徒ペテロです。彼は12人の使徒の筆頭であり、イエスの昇天後には原始キリスト教のリーダーとして、他の弟子たちと共に教会を立ち上げ、現在のキリスト教の強固な土台を築き上げました。彼の存在なくして、今日のキリスト教の広がりは考えられないと言っても過言ではありません。

湖の上を歩くイエスとその弟子たち、人間的な弱さを抱えながらも信仰を求めるペテロ湖の上を歩くイエスとその弟子たち、人間的な弱さを抱えながらも信仰を求めるペテロ

人間味あふれる「お調子者」ペテロのエピソード

キリスト教のリーダーとして絶大な功績を残したペテロですが、イエスの昇天前には、彼の人柄を示す数々の「残念な」エピソードに事欠きませんでした。彼は一言で言えば「お調子者」であり、衝動的で人間的な弱さを露呈することが度々ありました。

ある時、イエスがガリラヤ湖の上を歩くという奇跡を起こすと、ペテロは「僕もやってみたい!」と意気揚々と挑戦しました。一瞬は成功しましたが、すぐに恐れを抱き、あえなく湖に沈みかけてしまいます。この時、イエスから「信仰の足りない者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されたのは有名な話です。

また別の機会には、イエスが謙遜の模範として弟子たちの足を洗う行動を示しました。ペテロは当初「イエス様に足を洗ってもらうなど、もったいなすぎる」とこれを断ります。しかし、イエスが「私が洗わなければ、あなたは私と何の関係も持たない」と言うと、今度は一転して「それならば、足だけでなく手も頭も洗ってください!」と、場の空気を読まずに図々しい要求をして、イエスを困らせました。

イエスへの決定的な裏切りと深い後悔

ペテロの失敗談の中でも、特に世に知られているのが、イエスがローマ兵に捕らえられた際の出来事です。逮捕される直前、イエスは弟子たちに「これから私は捕らえられ、十字架につけられる。その時、あなたたちは皆私を見捨てて逃げてしまうだろう」と告げました。これを聞いたペテロは、自信満々に「たとえ他の弟子たちが裏切っても、私だけは決して逃げません!」と誓います。しかしイエスは、彼の言葉を打ち消すかのようにさらに預言しました。「あなたは、明日の夜明けに鶏が鳴くまでに、三度、私のことを『知らない』と言うだろう。」

「そんなことは絶対にありません!たとえ監獄に入れられようと、死に直面しようと、私はあなたについていきます!」とペテロは激しく反論しました。しかし、実際にイエスがローマ兵に捕らえられると、彼は恐怖に駆られ、自身の身の安全を守るためにその場から逃げ出してしまいます。そして、人々に「あれ?あなたはイエスと一緒にいた人ではないか?」と尋ねられるたびに、「そんな人は知らない!」と否定し続けました。

さらに別の人から「やはりこの人はイエスの仲間だ」と指摘されると、「だから知らないって!」と再び強く否定します。そして、また別の人が「いやいや、間違いない。この男は確かにイエスの一味だ」と確信を持って指摘すると、ペテロはついに激高し、「だから本当に知らないと言っているだろう!誰だよそのイエスって奴は!!」と罵倒しました。

その三度目の否定の言葉を言い終わるやいなや、夜明けを告げる鶏の声が響き渡ります。その瞬間、ペテロはイエスの「鶏が鳴くまでに三度、私のことを『知らない』と言うだろう」という預言が恐ろしいほど正確に的中したことに気づき、自身の罪深さと裏切りに打ちひしがれ、激しく泣き崩れたのでした。世間ではイエスを裏切った人物としてユダの名が広く知られていますが、実はペテロを含め、ほとんどの弟子たちがイエスから離れ、逃げ去り、結果的に裏切っていたのです。

なぜイエスは弱きペテロをリーダーに選んだのか?

ペテロの人間的な弱さや、過ちを繰り返す姿を見ると、現代を生きる私たちは「自分なら決して裏切らないだろう」と安易に考えてしまいがちです。しかし、ペテロでさえ「自分だけは絶対に裏切らない!」と固く信じていたにもかかわらず、その誓いを破ってしまったのです。

イエスがこのように失敗を重ね、弱さを露呈したペテロを、なぜキリスト教の「礎石」となるべきリーダーとして選んだのか。それは、彼の人間的な弱さこそが、かえって多くの人々に共感を呼び、神の赦しと慈悲の深さを証するからかもしれません。ペテロの物語は、完璧ではない人間でも、悔い改め、再び立ち上がることで、神の大きな計画の中で重要な役割を果たすことができるという希望のメッセージを私たちに投げかけています。彼の物語は、私たちの内なる弱さと向き合い、それでもなお信じ続けることの尊さを教えてくれるのです。

参考文献

MARO『聖書のなかの残念な人たち』(笠間書院)