第二次世界大戦中、太平洋戦線における激戦地の一つとなったガダルカナル島。この南太平洋の島に展開した日本兵たちは、米軍の反攻と補給途絶により極限の飢餓に直面しました。多くの兵士が十分な食料や武器がないまま悲惨な最期を迎えた「飢餓の島」で、何が起きていたのか、その凄惨な実態に迫ります。
飢餓がもたらした肉体の崩壊と精神的極限
元陸軍中尉、小尾靖夫氏の手記『人間の限界 陣中日誌』には、極限の飢餓が兵士たちの肉体をいかに変容させたかが克明に記されています。栄養失調により髪質や歯がボロボロになり、生命力が失われていく様子が生々しく描写されています。
「12月27日 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界にまできたらしい。生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充塡物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った」
絶望的な「生命判断」の流行
そして1942年末、ガダルカナル島の日本兵たちの間では、自身の身体状態から余命を予測するという、悲惨な「生命判断」が信じられるようになります。小尾氏は、この非科学的な判定が恐ろしいほど当たったと記しています。
「人間の限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった」
「立つことのできる人間は……寿命三十日間。身体を起して坐れる人間は……三週間。寝たきり起きられない人間は……一週間。寝たまま小便をする者は……三日間。もの言わなくなった者は……二日間。またたきしなくなった者は……明日。ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終るのであろうか」
戦略的失敗が生んだ「飢餓の島」
太平洋戦争開戦後、日本軍は東南アジアから南太平洋へと急速に勢力圏を拡大しました。しかし1942年夏、米軍が日本軍が飛行場を建設していたガダルカナル島へ奇襲反攻を開始。これ以降、戦略の潮目は大きく変わります。
日本軍は飛行場を奪還すべく8月から10月にかけて部隊を上陸させましたが、米軍の強固な抵抗により攻撃は失敗に終わりました。結果として、11月末時点で約2万人もの日本兵が、米軍に包囲された状態で島に取り残されることになったのです。
太平洋戦争:ガダルカナル島上陸作戦中の米海兵隊員 (1942年)
極限状態でのサバイバル:草とトカゲを食す日々
海上からの補給が完全に途絶した兵士たちを襲ったのは、飢餓とマラリア、赤痢といった病でした。骨と皮ばかりに痩せ細った兵士たちは、生き延びるために草やトカゲなど、あらゆるものを口にしました。元陸軍中尉の大友浄洲氏は、当時の極限状態をこう振り返ります。
「食べられる物は草とトカゲぐらいだった。トカゲが目の前をちょろちょろすると、塹壕にへたり込んだ兵隊の目がカッと開く。竹の杖でたたくんだが、体が弱ってるから当たらない。逃げられると恨めしげな顔してね。今もその光景が忘れられない」
ガダルカナル島での悲劇は、単なる戦術的敗北ではなく、補給の軽視や戦略的判断の誤りが、いかに多くの兵士を地獄へ追いやるかを示す事例です。「餓島(がとう)」と化し、飢餓と病で多数が命を落としたこの島の教訓は、戦争における人命の重さ、そして戦略的判断の重要性を示すものとして、今なお重く響きます。
出典: 共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)