田沼意知暗殺の真相に迫る:殿中刃傷の裏に隠された謀略と世論の波紋

江戸時代中期の天明4年(1784年)3月、若き幕府要人、田沼意知が江戸城内で新番士の佐野政言に刺殺された事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えました。この歴史的な出来事は、現代においてもNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で描かれ、俳優の宮沢氷魚が演じる意知と、矢本悠馬演じる佐野の熱演は、多くの視聴者の関心を集めています。しかし、この事件の背景には、単なる個人的な恨みを超えた、より複雑な政治的謀略や民衆の感情が渦巻いていた可能性が指摘されています。なぜ加害者が「世直し大明神」と讃えられ、被害者が罵倒されたのか、歴史評論家の見解や当時の記録を基に、その真相に迫ります。

NHK大河ドラマ「べらぼう」で田沼意知を演じる俳優・宮沢氷魚氏NHK大河ドラマ「べらぼう」で田沼意知を演じる俳優・宮沢氷魚氏

「世直し大明神」と民衆が称えた佐野政言:その背景にある社会の不満

大河ドラマ「べらぼう」が描く衝撃的な殿中刃傷事件

NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の第27回「願わくば花の下にて春死なん」では、政務を終え江戸城本丸御殿から退出した田沼意知が、桔梗の間に通りかかった際、佐野善左衛門政言に「山城守様」と呼びかけられ、突然斬りつけられる衝撃的な場面が描かれました。続く第28回「佐野世直大明神」では、深手を負った意知は治療の甲斐なく命を落とし、佐野は牢屋敷で切腹を命じられます。

しかし、この事件に対する世間の反応は異例でした。意知の葬列には「天罰だ」と石が投げつけられ、一方で佐野は「世直し大明神」として民衆に讃えられたのです。なぜ被害者が罵倒され、加害者が英雄視されるような事態になったのでしょうか。この民衆の複雑な感情こそが、当時の社会状況と事件の背景を読み解く鍵となります。

佐野政言を焚きつけた謎の武士の暗躍

ドラマ「べらぼう」では、佐野政言の行動を裏で焚きつける「事情により名は控え」る怪しい武士の存在が示唆されています。この男は佐野に対し、様々な虚偽の情報や不満を煽る言葉を伝えます。

例えば、将軍家治の鷹狩りの際、佐野が射たはずの雁が林で見つからなかった件で、この武士は「田沼意知様がこれを見つけられ、隠されるところを」と告げ、意知が佐野の手柄を妨害したかのように示唆します。また、佐野家の家宝である桜が咲かないと佐野が父から叱責されているところに現れ、かつて佐野が田沼に渡した系図が「無きものにされた」こと、佐野が贈呈した桜が勝手に神社に寄進され「田沼の桜」として愛でられていることなどを伝えます。加えて、佐野は周囲から意知が米の値を上げて私腹を肥やし、吉原で散財しているといった悪評を聞かされるようになります。

これらの情報は、佐野の個人的な恨みを増幅させ、意知への憎悪を募らせる強力な要因となりました。ドラマ中では、蔦屋重三郎(横浜流星)の「この一連、裏で糸を引いている者がおると考えられませぬか」というセリフが、単なる個人的な衝動ではない、より大きな陰謀の存在を示唆しています。

私憤か公憤か?歴史資料から探る佐野の真の動機

佐野政言の動機については、事件当時から様々な憶測が飛び交いました。懐に入れていたとされる「七箇条の口上書」や、残したとされる「十七箇条の口上書」の内容がその根拠とされてきましたが、これらは史料的には完全に裏付けられていません。

例えば、「七箇条の口上書」とされる内容には、佐野家の系図を田沼親子に騙し取られたこと、佐野領の佐野大明神を意知が田沼大明神に変えたこと、金銭を渡して昇進を頼んだが叶わなかったこと、将軍の鷹狩りの場で佐野が鴨を射落としたが意知に別の者の矢だと主張され恩賞を得られなかったことなど、個人の不満や恨みに基づくものが中心とされています。

一方、「十七箇条の口上書」とされるものには、田沼父子の悪行が多数列挙されていたとされます。しかし、歴史評論家の香原斗志氏は、「佐野が、ひとり公憤を募らせ、死罪になる覚悟で斬りつけたとは考えづらい。この事件のウラには遠大な謀略があった可能性がある」と指摘しています。単なる私憤だけで、殿中で死罪を覚悟してまで要人を斬りつけるという行動には、別の強力な動機や背後の力が存在した可能性が示唆されます。

この斬殺事件については、3度にわたり長崎出島のオランダ商館長を務めたイサーク・ティチングが、日本滞在中の見聞をまとめた『日本風俗図誌』にも記述が残されています。秦新二氏・竹之下誠一著『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)に引用されたその記述も、事件の国際的な注目度と複雑な背景を物語っています。

結論:田沼意知暗殺が示す江戸の闇と民衆の声

田沼意知暗殺事件は、表面上は一介の武士による殿中刃傷という私的な事件に見えながらも、その裏には当時の幕府内部の権力闘争、田沼政治に対する社会の不満、そしてそれを巧みに利用しようとする勢力の謀略が複雑に絡み合っていた可能性が高いと言えます。佐野政言が民衆から「世直し大明神」と讃えられた事実は、当時の米価高騰や天候不順による飢饉など、田沼時代に募った人々の鬱憤が、彼の一撃に集約されたことを示しています。

この事件は、単なる歴史の出来事としてではなく、時の権力と民衆の間の深い溝、そして目に見えないところで働く政治的な力が、いかに人々の運命や社会の趨勢を左右するかを物語っています。田沼意知暗殺の真実は、今もなお多くの議論を呼びますが、その多層的な側面を探ることは、歴史を深く理解する上で極めて重要です。あなたはこの歴史的事件の真実をどのように考えますか。

参考文献

  • ヤフーニュース(オリジナル記事)
  • President Online: 「なぜ田沼意知は罵倒され加害者は讃えられたのか」
  • 香原斗志氏の見解に関する出典記事(President Online他)
  • イサーク・ティチング著『日本風俗図誌』
  • 秦新二・竹之下誠一著『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)