2025年は、第二次世界大戦終結から80年という節目の年を迎えます。この80年間、戦争の悲劇は語り継がれてきましたが、未だ十分に光が当てられていない歴史や、人々の記憶から忘れ去られようとしている史実が存在します。その最たるものが、国外で抑留された日本人の存在です。中でも「シベリア抑留」は広く知られていますが、実は東南アジアにおいても約80万もの日本軍兵士が拘束され、想像を絶する過酷な強制労働や飢餓に苦しみました。もし事態が長期化していれば、「シベリア並みの地獄」になった可能性さえあったと言われています。
この「南方抑留」と呼ばれる知られざる歴史の背景には、国際法を無視して無賃労働を強いる英軍の存在がありました。そして、この事態を知った連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が強く英国を非難し、牽制したという逸話も残されています。戦争・戦後史の専門家である林英一氏の著書『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)は、ジャワ、ビルマ、フィリピンなど、南方各地に抑留された兵士たちの記録を通して、その実態を克明に明らかにしています。平和祈念展示資料館名誉館長を務める増田弘氏(立正大学名誉教授)による同書の書評を引用し、南方抑留の知られざる実態とその歴史的意義を深く掘り下げていきます。
第二次世界大戦後の南方抑留において、国際法違反を犯す英軍を強く非難したダグラス・マッカーサー元帥
「もう一つの地獄」:南方抑留の実態とシベリア抑留との比較
「事実は小説よりも奇なり」という金言は、まさに本書の中にちりばめられた抑留者の日記が物語っています。敗戦後、外地の日本軍将兵や軍属が連合軍の監視下で送った抑留生活は、鉄条網の内外で繰り広げられた陰惨なものでした。本土でようやく平和が訪れたと安堵していた状況とは対照的に、現地の実情は暗く悲惨であり、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図を見るかのようだったと記されています。
抑留と聞けば、多くの日本人がシベリアを連想しがちです。しかし、本書が主題とするのは北方のシベリアではなく、東南アジア各地での「南方抑留」です。降伏当時、ここには実に80万人もの日本軍兵士が拘束されており、シベリア抑留の対象となった60万人を数段上回る規模でした。しかも、飢餓、重労働、そして戦犯裁判という側面においては、北方同様に過酷であったことが明らかになっています。思想弾圧の有無や酷寒と酷暑という程度の差にすぎず、その悲惨さは共通していました。
では、なぜ南方抑留は世間の注目を浴びることが少なかったのでしょうか。その不均衡の理由として、林英一氏は以下の点を指摘します。北方抑留が最長11年に達したのに対し、南方抑留は比較的短い2年半で終結したこと。また、北方抑留が日本側の被害一辺倒であったのに対し、南方は先立つ「占領」が加害と被害の両義に及んだこと。さらに、南方は東西5千キロに及ぶ島しょ群でユーラシア大陸のような一体性がなく、シベリアがソ連の単独支配下にあったのに対し、南方では英・米・仏・蘭・豪の5カ国が分割統治したことも要因として挙げられます。シベリアが東西冷戦の影響を受けて世界から注視され続けたのに対し、南方にはさほどの国際的な波がなかったことも、その背景にあるでしょう。
戦後史研究家・林英一氏による著書『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』の表紙。知られざる日本兵士たちの悲惨な抑留生活が克明に描かれている。
各地で繰り広げられた南方抑留の悲劇
本書に収録された抑留者たちの日記は、各地で繰り広げられた南方抑留の悲惨な実態を生々しく伝えています。
インドネシア:連合軍と現地住民の狭間で
著者が専門とするインドネシアでの記述は特に生々しいものです。オランダからの独立気運が高まる中、日本人は連合軍と現地人の板挟みとなり、逃亡兵が続出しました。西ジャワの港湾タンジュン・プリオクの作業隊は、英軍宿舎の清掃、飛行場の修理、道路修繕、ドブ掃除などで酷使されたと記録されています。「嘗ては進駐軍として威張っていた日本人が、蟻のような長い行列を作って石炭運びに精出している図は、内地の子供達には見せられない」という一文は、彼らが日々感じていた疲労と屈辱、そして故郷への帰還を祈る切実な心情を伝えています。
マラヤ・シンガポール:死の島へ送られた8万の兵士たち
マラヤ(現マレーシア)とシンガポールで降伏した日本軍8万人は、クルアンの検問所で戦犯容疑の簡易裁判を受け、戦犯容疑者は「黒キャンプ」、その他は「白キャンプ」に選別されました。その後、彼らはシンガポール沖のレンパン島へ移送されます。この島は、第一次世界大戦後にドイツ軍捕虜2千人が飢餓とマラリアで全滅した「死の島」として知られていました。当然ながら、抑留者の日記は食事や食糧問題に集中し、「兵隊たちの顔いろのわるいこと、青黒くむくんで、目がはれぼつたくみんなほそい目になつてゐる。…一ケ月たつと、私たちもみんなこんな風になつてしまふことであろう。思わずぞっとした」と、その恐ろしい現実を記しています。
ビルマ:国際法違反とマッカーサー元帥の牽制
インパール作戦で多大な犠牲者を出したビルマ(現ミャンマー)では、帝国大学出身のインテリ見習士官が、収容所の英軍の規律正しさや人柄の良さに感心した一方で、新たに支給された作業服に書かれた「JSP(Japanese Surrendered Personnel:日本人降伏者)」の文字に大きな衝撃を受けたと告白しています。
実は英軍は、ジュネーブ条約に従わず、日本軍を「捕虜(POW)」ではなく「日本人降伏者(JSP)」と規定し、無賃労働を強制していました。これは明白な国際法違反であり、連合国軍最高司令官であったマッカーサー元帥が英軍を「第二のソ連」として強く非難したとされています。このマッカーサーの強力な牽制が功を奏し、最終的に英国政府は譲歩。残留日本兵の労働賃金の支払い計算が行われましたが、その支払いは日本政府に代替させる形となりました。現地英軍の論理は、破壊者が南方の再建に従事するのは義務であり無償が当然というものでした。もしマッカーサー元帥が英国側を牽制していなければ、南方残留者の抑留はシベリア並の長期に及んでいたかもしれないと推測されています。
フィリピン:苛烈な戦場と収容所の暴力
「帰らないでくれ」とラブコールを浴びたインドネシアとは真逆の状況だったのがフィリピンです。動員された日本兵60万人の約8割にあたる50万人が命を落とし、フィリピン人も110万人が落命した激戦地でした。そのため、日本人はキャンプへの輸送前後、「ドロボー、バカヤロー、パタイ(殺せ)」と現地人から罵声を浴び、投石されるのが日常だったと言います。さらに収容所内では「暴力団」が支配する有様でした。彼らは炊事を掌握しただけでなく、演芸や一般作業にも関与し、彼らの悪口が知られるとリンチが待っていたという恐ろしい状況でした。これは米軍が日本軍の階級制度を停止させたことの後遺症でもあったとされています。
ラバウル:自給自足と今村司令官の英断
そのような悲惨な状況が続く中で、ニューブリテン島ラバウルの第八方面軍は例外的な事例として際立っています。今村均司令官の英断により、現地では降伏以前から農耕に取り組み、自給自足に成功していました。終戦後も日本軍9万人に対する指導体制を維持し、さらに今村司令官は自ら戦争責任を取るべく志願して刑務所入りし、オーストラリア軍側を感嘆させたという逸話が残されています。
南方抑留の記憶を未来へ:戦後日本の課題
約80万にも及ぶ南方抑留者たちが経験した悲痛な叫び、そして戦争を導いた要路への猛省を、戦後の民主国家日本は果たして十分に活かし得たのでしょうか。今年の戦後80年という節目を迎えるにあたり、この問いは改めて私たちに重くのしかかります。本書が浮き彫りにした知られざる歴史の真実は、私たち日本人にとって、戦争と平和、そして過去の過ちと向き合うための貴重な教訓を与えてくれます。未来へと平和な社会を築き上げていくためにも、南方抑留の記憶を決して風化させてはならないという、一抹の不安を伴う強いメッセージが読み取れます。
執筆協力・参考文献
- 著者: 林 英一(戦争・戦後史専門研究家)
- 書評者: 増田 弘(立正大学名誉教授、平和祈念展示資料館名誉館長)
- 1947年神奈川県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。専門は日本政治外交史、国際政治外交論。東洋英和女学院大学教授、同大学副学長、立正大学法学部特任教授、石橋湛山研究センター初代センター長などを歴任。
- 主な著書:
- 『石橋湛山研究:「小日本主義者」の国際認識』(東洋経済新報社)
- 『石橋湛山:リベラリストの真髄』(中公新書)
- 『自衛隊の誕生:日本の再軍備とアメリカ』(中公新書)
- 『マッカーサー:フィリピン統治から日本占領へ』(中公新書)
- 『公職追放論』(岩波書店)
- 『石橋湛山:思想は人間活動の根本・動力なり』(ミネルヴァ書房)
- 『南方からの帰還:日本軍兵士の抑留と復員』(慶應義塾大学出版会)など。
- 参考文献: 林英一 著『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)
- 協力: 新潮社 波 Book Bang編集部
(Source link: https://news.yahoo.co.jp/articles/b7d5dee99f1182bf19b0c95a268626d3567458b0)