太平洋戦争の激戦を生き抜き、「幸運艦」と称された駆逐艦「雪風」。今夏注目を集める映画『雪風 YUKIKAZE』(8月15日公開)は、この歴史に残る駆逐艦の史実に基づいています。本作の脚本を手がけた長谷川康夫氏が、知られざる制作の舞台裏、そして込められた深いメッセージを明かします。この映画は単なる歴史物語ではなく、一人の元兵士の言葉が制作陣の心に深く刻まれ、平和への切なる願いを伝える作品となりました。
太平洋戦争を無傷で生き抜き、復員輸送船として活躍した駆逐艦「雪風」
史実への深い敬意と創作の原則
長谷川氏が脚本家として重んじるのは、原作者の半藤一利氏から受けた「物語なのだから、事実をしっかり把握した上なら、あえて創作する部分があっても構わない。しかし無知を自覚せずに、都合よくフィクションをはめ込んではいけない」という言葉です。この原則のもと、『雪風 YUKIKAZE』の制作は、関連資料や書籍の徹底的な読み込み、そして国会図書館での綿密な調査から始まりました。歴史を歪めることなく、真摯な姿勢で史実と向き合うことが、作品の根幹を成しています。
証言者が繋ぐ歴史の重み
脚本作りの上で何よりも力となるのは、やはり戦場を実際に体験した方々の証言です。太平洋戦争を舞台にした過去の作品では、多くの元兵士から直接話を聞く機会があったものの、時が経ち、その数は激減。今回、全国を巡って会えたのはわずか数名で、その最後の一人が愛媛県在住の今井桂さんでした。今井さんは10代で戦艦「大和」の沖縄特攻に出撃した駆逐艦「初霜」の電信員を務め、「雪風」と共に戦場を駆けた貴重な証言者です。
今井桂氏の最後の言葉、そして映画の完成
2023年9月、長谷川氏とプロデューサーの小滝祥平氏は今井さんの自宅を訪れ、長時間にわたり話を聞きました。別れ際、今井さんは「もう戦争のことを話すのは、これが最後です」と静かに語った後、一言「……戦争だけはやってはいけない」と呟かれました。この言葉は制作陣の心を強く打ち、必ずこの映画を完成させ、今井さんに観ていただかなければならないという強い覚悟を抱かせました。その想いは実を結び、翌年5月に撮影が開始。2025年6月5日、松山での試写会には、99歳を迎える今井さんが二人の娘さんと共に姿を見せ、映画を観終えた後、長谷川氏と小滝氏に真っ直ぐ頷きました。この瞬間、制作陣は映画の真の完成を実感したと言います。
今井さんはその25日後、6月30日に逝去されました。病が全身に広がっていたにもかかわらず、今井さんは映画の完成を待ち続け、その目に焼き付けてから旅立たれたのです。エンドロールの波音に重なって試写会場に響いた今井さんの拍手は、制作陣の胸に今も深く刻まれ、平和への強いメッセージとして響き続けています。
プロフィール
長谷川康夫(はせがわ・やすお)/1953年、札幌市生まれ。早稲田大学政経学部入学後、劇団「つかこうへい事務所」で『蒲田行進曲』など多くのつか作品に出演。劇団解散後は劇作家、演出家、脚本家として活躍。
※週刊ポスト2025年8月8日号