2001年の同時多発テロ事件を機に、米海兵隊員としてアフガニスタンとイラクの戦場を経験したナサニエル・フィック。彼が26歳で海兵隊を去ることを決意した背景には、深い心理的な葛藤と、戦場が兵士にもたらす影響への洞察があった。本稿では、彼自身の言葉から、戦いの最前線で培われたリーダーシップと、そこから生まれた退役への決断の真意を探る。
イラク戦争後、海兵隊を去る決意
小隊長として3年が経ち、私は大尉に昇進し、基本偵察コースの指揮官に選ばれた。海兵隊では作戦指揮官のポストには限りがあり、二度の戦闘展開を経験した私がすぐにアフガニスタンやイラクへ戻ることはなく、事務仕事に就くことが決まっていた。1998年に士官候補生学校に入学した時は、海兵隊員としての道を歩むことを考えていた。アフガニスタンでの経験後もその思いは残っていたが、可能性は少し低くなった。しかし、イラク戦争を経験した後は、海兵隊を去らなければならないと確信した。
周囲の人々の大半は、私の退役を当然の選択であるかのように受け止めた。海兵隊に任官した際、「ダートマス(編集部注:アイビー・リーグの名門大学)の学生だったのに何が?」とか、「海兵隊は給料が良いの?」などと尋ねられたものだ。ある知人は私の両親を慰めようと、「がっかりなさったでしょうね」と言った。彼らは今、私がかつての“過ち”を正している、あるいは若者特有の冒険心が満たされたと考えている。彼らは、退役の理由が長期にわたる展開、頻繁な移動、安い給料、そして危険といった仕事の厳しさにあると思っている。しかし、それは間違いだ。私にとって、海兵隊将校であることの名誉と誇りは、目には見えなくとも、あらゆる苦難に勝るものだった。
海兵隊の仲間の中には、私の決断がもっと個人的なものだと理解してくれた者もいた。彼らは、指揮官の戦術的能力よりも、ピカピカに磨かれたブーツの方に重きが置かれる階級社会で、私が心をすり減らしていたことを知っていた。そして、上の世代の隊員たちが20年かかったこと、あるいは一度も経験しなかったことを、自分たちはわずか4年間で成し遂げたという思いがあったのだ。
偉大な指揮官の“非情な決断”と、私が戦士でなくなった理由
将校が昇進するということは、事務仕事が増え、部隊との時間が減ることを意味する。私が海兵隊に入ったのは鉛筆ではなく剣を握るためだというのも、仲間たちは知っていた。その通りだ。しかし、本当の理由はさらに深いところにあった。
米海兵隊員のイメージ。アフガニスタンやイラク戦争の厳しい戦場を経験した兵士の姿を想起させる。
私が海兵隊を去ったのは、戦いを好まない戦士になってしまったからだった。海兵隊には勇者を思わせる隊員が大勢いる。脛鎧や胸甲の紐をきりっと結び、流血の場面へ分け入っていく男たちの持つ、あの謎めいた空気をまとった隊員たちだ。私はそういう隊員たちに尊敬の念を抱き、憧れ、真似をしたが、決してそうはなれなかった。
殺せと命じられれば殺すこともできたし、誰にも引けをとらないほど戦闘の恍惚感に酔うこともできた。しかし、自ら選んであの立場に身を置き、それを生涯の仕事として延々と繰り返せるかというと、私には無理だった。偉大な海兵隊指揮官は、偉大な戦士が皆そうであるように、自らが最も愛する者を殺すことができる。それは自分の部下を犠牲にするという、戦の原理原則である。私は二度、それを逃れた。もうこれ以上、戦の神を試す危険は冒せないと感じたのだ。
結論
ナサニエル・フィックの経験は、単なる軍務の記述を超え、戦場の厳しさ、兵士の心理、そしてリーダーシップの真髄を浮き彫りにする。彼の決断は、物質的な困難よりも、精神的な葛藤と自己の信念に基づいていた。戦士として戦場に身を置きながらも、戦いを「好まない」という内面の変化は、戦争が個人に与える複雑な影響を示すものだ。彼の物語は、軍務を離れるという選択が、時には最も勇気ある決断であることを示唆している。
参考文献
ナサニエル・フィック著、岡本麻左子訳『死線をゆく アフガニスタン、イラクで部下を守り抜いた米海兵隊のリーダーシップ』(KADOKAWA)
Source link