前回、NHK番組「新プロジェクトX」で取り上げられた湖東記念病院人工呼吸器事件の冤罪被害者、西山美香さん(45歳)について、獄中鑑定を担当した精神科医として、その発達障害・軽度知的障害、愛着障害といった特性と、警察・司法における「供述弱者」の問題点を指摘し、現在進行中の再審法改正の早期実現を訴えました。本稿では、他の冤罪被害者の支援に奔走しつつも、自らの心の病に苦しむ美香さんの「生」の姿をお伝えします。彼女が私たちと同じ「特別な存在ではない」ことを広く知っていただくことが、この記事の目的です。
湖東記念病院人工呼吸器事件:冤罪を生む構造的問題
西山美香さんの事件は、日本の警察・司法制度が抱える根深い問題を浮き彫りにしました。特に彼女のような供述弱者にとって、取り調べの環境や手法が冤罪を容易に生み出しうる危険性を改めて示しています。前稿で解説したように、取り調べ刑事に好意を抱いてしまった心理や、彼女の持つ発達障害や軽度知的障害、愛着障害といった特性が、虚偽の自白を誘発しやすい状況を作り出しました。冤罪被害者の救済と再発防止のためには、再審法の抜本的な改正が喫緊の課題であり、私たち社会全体がこの問題に目を向ける必要があります。
刑務所での出会い:「小出先生ですね!」の衝撃
西山美香さんと初めて面会したのは、2017年4月20日、彼女がまだ第二次再審請求中で和歌山刑務所に服役中のことでした。私は主任弁護人の井戸謙一弁護士、中日新聞の秦融・角雄記両記者、そして心理検査担当のベテラン心理士と共に、特急くろしおで和歌山へと向かいました。面会の実質的な目的は精神鑑定であり、私と心理士、そして冒頭のみ井戸弁護士の3人が面会室に入室しました。
金属チェックを何度も受け、持ち物すべてをロッカーに預け、ノートと鉛筆だけを持って入室すると、囚人服姿の女性が小走りに近づいてきました。小窓付きのアクリル板越しに腰かけるなり、間髪入れずに明るく言ったのです。「小出先生ですね!」当時37歳だった美香さんは、髪に白いものが混じり始めていましたが、肌艶は良く、冤罪に苦しむ女性には見えませんでした。その第一声の明るさは、精神科医である私に「躁的防衛」を思わせました。これは、不安を隠すために気分が自然とハイテンションになる心の防衛機制を指します。後に本人に尋ねると、井戸先生からこの日の予定を聞き、ワクワクしていたのだと語りました。刑務所での精神鑑定を喜ぶという一見不可解な心境は、彼女の根深い「承認欲求」に起因します。元来、人付き合いが苦手な美香さんは、自分に興味関心を向けてくれる相手にはほぼ無条件で心を開きます。極端に言えば、「私を見て。認めてくれる人にはどこまでもついていく」という強い気持ちがあったのです。
割れたマグカップを丁寧に修復する西山美香さんの手元。冤罪被害から立ち直る心の回復を象徴する
「P-Fスタディ」が示す深層心理とこれからの課題
鑑定で実施した心理検査の一つ、「P-Fスタディ」の一部が「新プロジェクトX」でも紹介されました。これは、ストレス下での対話状況を描いた絵を見て、空欄に想像されるやり取りを書き入れることで、被験者の深層心理を読み解く検査です。例えば、白バイ警察官が乗用車を運転する男性に「学校の前だというのに、60キロもスピードを出して」と問い詰める場面で、男性が何と答えるかという設問に対し、美香さんは一体何と書いたのでしょうか。この問いは、美香さんの独特な特性を如実に表しており、彼女の心の奥深くにあるものを探る手がかりとなります。
西山美香さんの姿は、特定の「冤罪被害者」としてではなく、私たちと同じように心の弱さを持ち、承認を求める一人の人間として理解されるべきです。彼女が現在も心の病と闘いながら、他の冤罪被害者のために活動している事実は、その強さと脆さの両方を示しています。この現実を直視し、供述弱者を守るための再審法改正をはじめとした司法制度の改革を、社会全体で推し進めていくことが、公正な社会を築くために不可欠です。
参考文献:
- Yahoo!ニュース. (2024年4月28日). 美香さんの誕生日の記憶力は頭抜けている。マグカップは割れて届いたのを接着剤でくっ付けてある.