中世の日本において、商業活動は様々な権力によって厳しく統制され、既存の利権が日本列島の隅々まで張り巡らされていました。特に京都に近接し、東方からの物資輸送の要衝であった近江国では、新たな商業権益が生まれる余地はほとんどないとされていました。しかし、この困難な状況下で、なぜ地元の新興商人たちは既存の特権集団を押し退け、躍進を遂げることができたのでしょうか。そこには、彼らの「したたかな戦術」と粘り強い努力がありました。
中世の商業活動と「座」の形成
鎌倉時代まで、地域を遍歴しながら商品や自らの製品を売り歩く「行商人」が多く活動していました。彼らは特定の保護を持たないリスクを抱えつつも、比較的自由な商業活動を享受していました。
しかし、南北朝時代以降になると状況は一変します。商業から生まれる利益に目をつけた多様な権力が、地方の港町などの商業拠点や主要な流通路を支配下に置くようになります。これにより「関所」が設置され、港の利用税や道路の通行税が徴収されるようになり、行商人たちの利益は大きく圧迫されることになりました。
こうした変化に直面し、行商人たちもまた生き残りを図るために組織化の道を辿ります。彼らは地縁や日常的な商売活動を通じて集団を結成し、「座」と呼ばれる特権的な商業組織を形成していきました。これは、商売利益の一部を定期的に時の権力に上納することで、諸税免除などの特権を獲得しようとする動きであり、京都の四府駕輿丁座と同じような行動形態と見なすことができます。地域を拠点としながらも、彼らもまたその本質において「座」だったのです。
近江国庁跡の全景。中世日本の重要な交通・商業の要衝であった近江国の歴史的背景を示す。
強固な先例主義社会における挑戦
中世社会は「強烈な先例主義社会」という側面を持っていました。時代を経て様々な権力が移り変わったとしても、時の権力によって既に築かれた既存の様々な権益を覆すことは容易ではありませんでした。このため、後発の商人集団、例えば近江国の保内商人のような新興勢力が、如何にして強固な既得権益を切り崩していったのかは、極めて重要な問いとなります。
彼らの巧妙な戦略を読み解く鍵は、具体的な商業紛争の記録に見出すことができます。
保内商人と横関商人の熾烈な商圏争い
文亀2年(1502年)、守護六角氏の重臣である伊庭貞隆が、保内商人に向けてある文書を発給しました。これは、保内商人と横関商人との間で起きた「御服(呉服)座相論」に関するもので、発端は島郷の市において、横関商人が保内商人の扱う商品を一方的に差し押さえたことでした。横関商人は、島郷の市は自らの縄張りであり、座としての権益を保有しているため、保内商人には商売を行う権利がないと主張したのです。
同時期には、現在の滋賀県東近江市にあたる八日市(ようかいち)においても両者の争いがありました。この件では、六角氏被官の建部直秀が双方に対して商売を認める決定を下しています。彼は「往古より問題ない」と判断し、双方に権益があることを認めたため、これは一種の「痛み分け」と見なされました。
これらの事例から、当時の琵琶湖の東側地域では、保内商人と横関商人の間で商圏の縄張り争いが極めて熾烈を極めていたことがうかがえます。横関(現在の滋賀県近江八幡市・竜王町)は旧東山道沿いに位置し、今堀郷にも近かったため、両者の間で競合が起きやすかったのです。相論の現場となった島郷(現在の滋賀県近江八幡市)は、東寺領荘園の三村荘の中心であったとされ、現在の近江八幡市の中心部に位置していたと考えられています。地理的に見れば島郷と横関の距離は保内よりも近かったものの、どちらの主張が真実であったかは、これらの記録だけでは明確に判断することは難しい状況でした。
結論
近江の新興商人たちは、中世日本の強固な先例主義社会において、既存の権益が盤石な商業環境に直面しました。しかし、彼らはただ既存の秩序に従うだけでなく、遍歴する行商人から「座」へと組織化することで自身の地位を確立し、さらには横関商人との熾烈な商圏争いを繰り広げながら、粘り強く交渉し、領主の裁定を引き出すといった「したたかな戦術」を駆使しました。彼らの活動は、単なる商業活動を超え、中世日本経済における構造的な変化と、新たな商業秩序が形成されていく過程を雄弁に物語っています。近江商人の起源と躍進は、既存の枠組みを打破し、新しい時代を切り開くパイオニア精神の象徴と言えるでしょう。
参考文献
- 川戸貴史『商人の戦国時代』(ちくま新書)
- 村井祐樹編『戦国遺文 佐々木六角氏編』
- 仲村研編『今堀日吉神社文書集成』
- 村井祐樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』
- 勝山清次「南北朝時代の東寺領近江国三村荘――守護領荘園の代官支配」『京都大學文學部研究紀要』五二





