戦後日本の知られざる情報戦:内閣調査室が吉田茂を支えた「赤い諜報活動」の実態

戦後の日本が「スパイ天国」だったという言説は、一面的な見方かもしれません。実際には、中国やソ連といった共産主義陣営による「赤い情報工作」が活発化する中で、日本の情報機関である内閣調査室は、敵陣営の動向を正確に把握しようと奮闘していました。冷戦初期という国際情勢がシビアな時代において、吉田茂元首相が内外の情勢を的確に判断し、国家運営のかじ取りを行う上で、内閣調査室が提供する詳細な情勢報告は不可欠なものでした。本稿では、岸 俊光氏の著書『内調――内閣情報機構に見る日本型インテリジェンス』の一部に基づき、当時の緊迫した諜報活動の実態に迫ります。

吉原資料が明かす中ソ諜報活動の全貌

戦後日本の知られざる情報戦:内閣調査室が吉田茂を支えた「赤い諜報活動」の実態
吉田茂元首相の肖像。戦後日本における諜報活動の実態を把握し、冷戦期の国家運営に尽力した。

作家・ジャーナリストの吉原公一郎氏が所有していた未公刊の「吉原資料」には、当時の中国(中共)とソ連による諜報活動に関する貴重な文書が多数収められています。これらの資料の多くは、内閣総理大臣官房調査室が新設された1952年(昭和27年)4月から、第3次鳩山一郎内閣期の1956年(昭和31年)4月にかけて作成されたもので、当時の日本が直面していた国際的な情報戦の深刻さを浮き彫りにしています。

資料は、当時進行中の諜報活動、戦前の諜報活動、そして中ソからの引揚者調査の大きく3つに分類できます。特に、1950年代の冷戦初期に日本を舞台に繰り広げられた中共やソ連の激しい情報工作活動は、平和条約締結に関する外交文書からは読み取れない、もう一つの側面を示しています。

日本を舞台にした熾烈な情報戦の具体例

当時の情報戦は多岐にわたり、日本国内で具体的な事件や活動として表面化していました。いくつかの事例を見てみましょう。

中共は、日本に留学する学生に対する工作を強化していました。その一環として、香港在住の黄異という人物が責任者として日本に密入国し、横浜中華学校で発生した暴力事件に先鋭化した中国留学生の共産党運動に指令を出していたことが明らかになっています。黄異は無一文で日本に潜入したにもかかわらず、インドネシア銀行香港支店を通じて多額の資金を日本国内に注入しており、資金源が外国銀行を合法的に利用していたことから、当時の内閣調査室は銀行に対する監視の必要性を訴えていました。この横浜中華学校の暴力事件は、1952年に大陸系と台湾系に分裂した「学校事件」を指すとみられ、その複雑な背景が浮き彫りになります。

また、中共が特派した女性工作員、呉貴芳が東京に潜入し、東京大学新聞班に勤務していた薩漱芳という女性を買収して、在日中国人に関する各種情報を収集させていた事例も記録されています。薩漱芳は、中国海軍司令の祖父と国民政府海軍部次長の父を持つ名家の出身でしたが、中共解放時に父を亡くし、学費にも困窮する状況にありました。その経済的困窮を突かれ、呉貴芳によって情報収集に利用されたとされています。

さらに、東京都杉並区上荻窪に在住していた中国・青島出身の中共党員、王可光(別名・王心如)一派の動向も監視されていました。特に盧兆堂と徐連智という2名の人物の経歴や交友関係者、具体的な活動状況などが詳細にまとめられ、日本国内における潜伏工作員と彼らのネットワークの存在が示されています。

内閣調査室が支えた戦後日本の安全保障

これらの具体例からもわかるように、戦後間もない日本は、国際的な冷戦構造の中で、まさに情報戦の最前線にありました。内閣調査室は、「吉原資料」に代表されるような膨大な情報を通じて、中共やソ連の諜報活動の実態を詳細に把握し、その動向を吉田茂首相に報告することで、日本の安全保障と外交政策に不可欠な役割を果たしました。単なる「スパイ天国」という安易な言葉では語れない、複雑かつ緊迫した情報活動が繰り広げられていたのです。内閣調査室の地道な活動は、冷戦期の日本が国際社会の中で国家としての独立と安定を確立していく上で、影ながらも重要な基盤を提供していたと言えるでしょう。


参照文献

[引用元] 岸 俊光『内調――内閣情報機構に見る日本型インテリジェンス』(筑摩書房)より抜粋・編集。
[記事出典] Yahoo!ニュース (Diamond Online)