戦後80年という節目を迎え、これまで十分に語られることのなかった一つの深刻な問題が、ようやく社会の注目を集め始めています。それは「戦争トラウマ」です。戦地で過酷な経験をした元兵士たちだけでなく、その影響を直接受けた一般市民もまた、心に深い傷を負いました。この見えない傷は、戦後社会において不眠、悪夢、アルコール依存、さらには子どもへの虐待といった形で顕在化し、現代の日本社会においても世代を超えて連鎖していると指摘されています。戦争が日本に深く刻みつけた心の傷、その実態と現代への影響を探ります。
戦後PTSDと向き合う「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」代表の黒井秋夫氏
「戦争ボケ」と呼ばれた父:社会の冷たい眼差し
「森倉んちのおやじさん、『戦争ボケ』だからな――」。森倉三男氏(71)の耳には、兄の友人が何気なく漏らしたこの言葉がいまも深く刻み込まれています。その言葉が交わされた具体的な経緯はすでに定かではありませんが、森倉氏は当時の感情を「悲しいとか、怒りとか、そういう感情じゃない。『恥』の意識だったね」と振り返ります。
森倉氏の父、可盛氏は1919年、北海道・知床半島の小さな開拓農家に生まれました。アジア・太平洋戦争開戦前年の21歳で徴兵され、兵役として最も適するとされ、名誉でもあった「甲種合格」で陸軍の航空整備兵となりました。「こんな田舎から航空隊に入る者は滅多にいない。優秀な青年だ」と周囲からも称賛され、家族も大いに鼻が高かったと伝えられています。出征の際には、町を代表して駅前で挨拶し、万歳三唱で見送られるほどでした。厳しい訓練を経て、1943年4月、南方戦線へと出港します。この時期は、国民的人気を誇った山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した頃と重なり、アジア・太平洋戦争における日本軍の戦況は日増しに悪化していました。
後に家族が取り寄せた軍歴によれば、可盛氏はラバウル、ニューギニア、パラオ、セレベス(現・スラウェシ)といった南太平洋の激戦地を転戦したようです。そして仏領インドシナで終戦を迎え、翌1946年5月に復員しました。戦地でマラリアに苦しみ、ようやく家にたどり着いた時は、歩くのもやっとの状態だったといいます。「復員兵には冷たい社会が待っていた。まるで、手のひらを返すようだったと思います」と森倉氏は父が経験したであろう苦難を推察します。
繰り返される戦場の記憶:家庭内でのトラウマの顕現
戦前、工員として働いていた経験を生かし、父は鉄工所を始めましたが、倒産に追い込まれました。その後は定職に就くことができず、農家の日雇いや、冬季の出稼ぎで生計を立てるしかありませんでした。近所の木工所で働く母の収入が、何とか家族7人の暮らしを支え、家計は苦しくなる一方でした。
戦争が残した心の傷について語る森倉三男氏
そうした思うようにいかない日々の暮らしの中で、父の表情に、まるで別人のように生気がみなぎる瞬間がありました。「おい、いまから戦争の話をする。座れ」。そう言って子どもたちを集め、酒を酌み交わしながら兵士時代の思い出に浸る時です。土間の薪ストーブの上に置かれた鍋からもうもうと蒸気が上がり、焼酎の瓶を片手に上気した父の顔がその中に浮かんでいたのを、森倉氏は鮮明に覚えています。
戦闘機の機首部分にある機関銃の弾が、プロペラに当たることなく発射される仕組みや、自分がどれほど操縦士から信頼された優れた整備兵であったかなど、父は滔々と語りました。「俺がいないと、飛行機は飛び立たない」が父の口癖で、酒を飲みながら得意げに語るのが常でした。こうした戦争の話は週に数回はあったでしょうか。一度始まると、およそ1時間は続きました。もし、うとうとと寝ぼけ眼の子どもの注意力が少しでも逸れようものなら、「真面目に聞け!」と烈火のごとく怒鳴りつけたのです。これは、戦争トラウマが家庭内で顕現した一つの形であったと言えるでしょう。
忘れてはならない心の負債
森倉氏の父が経験したように、戦争は個人の心に深く、長く残る傷跡を残します。それはPTSD(心的外傷後ストレス障害)として、不眠やアルコール依存、そして家族への影響という形で現れることがあります。森倉氏の父が繰り返した戦争の語りは、彼自身が抱えるトラウマの吐露であり、同時にその重みが家族に伝播する一因でもありました。
戦後80年を迎える今、私たちは戦争が残した目に見えない心の負債、すなわち「戦争トラウマ」の存在と、それが世代を超えて与える影響に真摯に向き合う必要があります。過去の出来事として片付けるのではなく、現在進行形の問題として認識し、その実態を深く理解することが、戦争の悲劇を繰り返さないため、そして未来の社会をより健全なものにしていくために不可欠です。この問題を深く掘り下げることで、私たちは戦争の本当の代償を学び、平和への道を模索する上での重要な一歩を踏み出すことができるでしょう。
参考文献
- 朝日新書『ルポ 戦争トラウマ』(一部抜粋、編集)