同じ渋谷区に自分と全く同じ名前の人物がいる――。この偶然を知った瞬間、著者の心臓は高鳴りました。メールを送るべきか迷い続け1年、ついに「田中宏和」と「田中宏和」が出会う日がやってきます。名刺を差し出しながら笑い合ったその瞬間から、名前という境界を越えて繋がる、ユーモラスで少し不思議な物語が始まりました。
渋谷区に同じ「田中宏和」が存在することを知った日
ブランド・クリエイティブ・ディレクターである著者、田中宏和氏が自身の名前を巡る奇妙な物語を記した書籍『全員タナカヒロカズ』(新潮社)からの一節です。ある日、彼は自分と全く同じ名前の人物が同じ渋谷区に住んでいることを知りました。その事実を告げるメールを受け取った著者の胸中は、驚きと興奮で溢れていました。近鉄の田中宏和さんやゲーム音楽の田中宏和さんの存在は知っていたものの、これほど身近に、しかも自分と同じ区に「もう一人の田中宏和」が生きていることに、運命的な何かを感じたと言います。
自分の名前には「遊び甲斐があった」と語る著者は、これまで普通だと思っていた「田中宏和」という名前が、突如として輝きを放ち始めたように感じたそうです。しかし、その喜びの裏には、同じ区に住む「別の田中宏和」と出会うことへの戸惑いも存在しました。すぐに返信すべきか、会って何を話せば良いのか、「田中宏和です」「田中宏和です」で会話が終わってしまうのではないか――。そんな葛藤が、実に1年間も続いたのです。
1年越しのメール、そして対面への不安と期待
心の準備を整えること約1年。2003年12月、田中氏は満を持してメールを書き上げました。その書き出しは、長年送ってみたかった念願の文章です。「田中宏和さま 突然のメールで失礼いたします。同姓同名の田中宏和と申します。」自身の名前でメールを受け取る相手が、これを迷惑メールや不審者からの連絡と捉える可能性を考慮し、丁寧さと不気味さのバランスを調整しながら何度も推敲を重ね、送信ボタンを強く押しました。
一線を越えた瞬間です。しかし、そこからは様々な妄想が著者を襲います。もし相手が極悪非道な凶悪犯だったら?悪徳商法の担い手で怪しい健康食品や開運グッズを勧められたら?新興宗教に勧誘されたら?借金を頼まれたら?そもそも同姓同名で会うこと自体がどうかしているのではないか――。とめどない不安を抱えながら数時間待った後、ついに返信が届きました。
名刺を交換するビジネスマンのイメージ写真
「田中宏和」同士の名刺交換、そのユーモラスな瞬間
そして、2003年12月、約束の日が訪れました。心細さから「ほぼ日刊イトイ新聞」の担当者を記録係として同行させ、田中氏は渋谷にある「もう一人の田中宏和」のオフィスを訪れます。呼び出しベルを鳴らし、「田中宏和です」と名乗ると、中に招き入れられました。初対面のビジネスマンが取るべき行動は一つ、名刺交換です。
「田中宏和です」と名乗り、自分の名刺を差し出す著者。
「田中宏和です」と名乗り、相手も名刺を差し出します。
名刺を交換した瞬間、二人は思わず笑い合いました。名刺と顔を見比べ、きょとんとするしかありません。名刺には確かに「田中宏和」と印刷されているのです。まるで自分が、その名刺に記載された「有限会社マグネットインダストリーの社長の田中宏和」であるかのような錯覚に陥ります。合わせ鏡の向こうにいるもう一人の自分と対話しているような、そしてこの名刺の肩書きで生きている自分をリアルに想像できる不思議な体験でした。名前が同じというだけで、名刺交換の度にこの奇妙な感覚と笑いが生まれると言います。日本の社会的立場を公に示すツールである名刺が、まるで人生そのものを交換したかのような気分にさせるのです。
名前が紡ぐ奇跡のつながり
「田中宏和」という共通の名前が、偶然とユーモラスな混乱を生み出し、やがて人々の間に温かい繋がりを築いていきました。単なる同姓同名という事実が、予期せぬ出会いと共感を呼び、日常にささやかな奇跡をもたらすのです。この物語は、名前の持つ意外な力と、人々が名前を超えて繋がる可能性を示唆しています。





