日本降伏の決断は原爆かソ連参戦か?歴史的要因を再検証

1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し降伏した背景には、何があったのか。一般的には広島・長崎への原爆投下を主因とする「核要因説」が主流ですが、米国側の意図や日本への影響を詳細に分析すると、ソ連参戦をより重要な要因と捉える「ソ連要因説」の妥当性が見えてきます。本稿では、この複雑な歴史的決断の要因を、新たな視点から深く掘り下げます。

「核要因説」と「ソ連要因説」の歴史的論争

米国が核兵器を用いた目的は早期終結とされるが、その効果の是非は歴史的議論の中心です。核要因説は日本のポツダム宣言受諾を核使用に帰し、広く流布。一方、ソ連参戦(および和平仲介の破綻)を重視するのがソ連要因説である。

広島原爆(8月6日)、ソ連参戦(8月9日未明)、長崎原爆(8月9日)と短期間に重大事態が連続したため、どちらが決定打かを断定することは困難とされる。歴史家トマス・ゼイラーはこれを「ゲーム」と評したが、本稿では史料と論理に基づき、当時の日本指導層がどちらに強く影響されたか検証可能と考える。

1945年12月、国会議事堂を背景に、終戦直後の焼トタン製住宅で暮らす東京の人々。焦土と化した街の復興途上の様子1945年12月、国会議事堂を背景に、終戦直後の焼トタン製住宅で暮らす東京の人々。焦土と化した街の復興途上の様子

天皇と東郷外相の会見記録の新たな解釈

核要因説の主要論拠は、1945年8月8日の昭和天皇と東郷茂徳外相の面会記録。広島原爆の翌々日、東郷は天皇に「新型爆弾投下を転機に終戦を決すべき」と進言したと、『終戦史録』(1952年外務省編纂)に記載がある。

天皇は「この種の兵器で戦争継続は不可能、速やかに終結を」と希望。面会後、東郷は鈴木貫太郎首相に最高戦争指導会議の開催を申し入れ、理由を「広島の原爆投下のことから」と説明。

会議は8日中開催予定が「構成員中に都合つかぬもの」のため翌9日に延期。この時点ではソ連は未参戦。核要因論者は、この経緯から、ソ連参戦前に日本指導層が終戦へ大きく踏み出したと解釈する。もし会議が8日中に開かれていれば、ソ連仲介策を断念し、原爆を要因としたポツダム宣言受諾が議論されていた可能性を指摘する。

ソ連仲介への期待とポツダム宣言受諾の外交戦略

日本は無条件降伏を有利な和平に引き寄せるため、終戦までソ連仲介に最後の希望を抱いた。この外交戦略に基づき、7月26日のポツダム宣言も、即時受諾ではなく、ソ連仲介を前提とした米国との交渉基礎と捉えた。

実際、モスクワの佐藤尚武駐ソ大使を通じ、元首相・近衛文麿特使の受け入れをソ連側に打診。このような状況での8月8日天皇と東郷外相の面会記録は、ソ連参戦前の日本の決断を示すものとして重要視される。

しかし、会議延期がなければ8日中にソ連仲介策を放棄し、ポツダム宣言即時受諾が議論されたかには慎重な検討が必要だ。この延期が、ソ連参戦という決定的な要素が日本指導層に与える影響を際立たせた可能性も示唆しており、単なる「都合つかぬもの」の裏にある歴史的文脈を読み解くことが重要だ。

日本降伏の要因は、原爆投下とソ連参戦が複雑に絡み合った結果と言えます。特に、天皇と東郷外相の会見記録の新たな解釈は、ソ連仲介への日本の最後の期待という外交戦略の重要性を浮き彫りにします。歴史の真実を多角的に検証することは、過去の教訓を学び、未来を理解するために不可欠です。

参考文献