吉田茂の側近として戦後日本の復興に尽力し、大物実業家としても名を馳せた白洲次郎は、その多才な顔の中に「無類の自動車好き」という一面も持ち合わせていました。彼の車への深い愛情は、若き日の「オイルボーイ」時代から晩年に至るまで変わることなく、日本のモータリゼーションの進展を鋭い眼差しで見つめていました。本記事では、白洲次郎とトヨタ・ソアラ、そして彼が日本の交通インフラに抱いていた先見の明にまつわるエピソードを深掘りします。
晩年まで続いた「オイルボーイ」の自動車愛
第一線を退いた後も、白洲次郎は様々な企業の会長や顧問を務め、精力的に活動していました。彼が仕事場へ向かう際には、いつも自らメルセデス・ベンツ450を運転していたと言います。10代で自動車に目覚め、イギリス留学時代には「オイルボーイ」と呼ばれたほどの車への情熱は、まさに生涯を通じて彼を魅了し続けました。
白洲次郎の娘である牧山桂子の結婚にも、メルセデス・ベンツが深く関わっています。夫の牧山圭男は、メルセデス・ベンツの総代理店であるヤナセに勤務していました。次郎は冗談交じりに「あいつは俺にベンツを売り付けて、代金のほかに娘までもって行きやがった」と語っていたというエピソードは、彼の人間味あふれる一面を垣間見せます。
交通インフラへの先見の明
白洲次郎は、日本の自動車産業の勃興期において、その未来を見据えた提言を行っていました。彼が牧山圭男に語ったとされる「自動車産業を国際的に育てようと考えるなら、右側通行にし、高速道路は3車線とし、出入り口やジャンクションなどは低速側に設置すべし」という言葉は、まさにその先見の明を示すものです。彼は、モータリゼーションが全盛期を迎えていたアメリカの状況を熟知しており、日本の役人や技術者が彼の進言に耳を傾けなかったことに苦言を呈していました。その結果として「今に東京は渋滞でえらい事になるぞ」という彼の予言は、現代の日本の都市交通の現状を見ても、まさに的中したと言えるでしょう。
白洲次郎と「初代ソアラ」の出会い
80歳で自らハンドルを握ることをやめた白洲次郎でしたが、その自動車への情熱が衰えることはありませんでした。トヨタ自動車の豊田章一郎から新型ソアラの開発が進んでいると聞くと、彼はすぐさま当時の現行モデルである初代ソアラを購入しました。
白洲次郎氏とトヨタ・ソアラの関連を示す一枚。彼は生涯にわたり車を愛し、日本自動車産業の発展にも影響を与えた人物として知られる。
初代ソアラは、当時の日本車としては革新的な技術、高性能なエンジンやサスペンションを取り入れた、まさに超贅沢な高級車として登場しました。その卓越した性能とデザインは大きな評判を呼び、多くの顧客が値引き交渉もせずに自らディーラーに赴いて購入していったほどです。初代ソアラは、その年の「第2回日本カー・オブ・ザ・イヤー」にも輝き、日本の自動車史にその名を刻みました。白洲次郎が初代ソアラに魅せられたのも、彼の自動車に対する深い洞察力と一流の審美眼の証と言えるでしょう。
結論
白洲次郎の生涯は、単なる政治家や実業家にとどまらず、深い自動車愛と未来を見通す洞察力に満ちていました。彼のメルセデス・ベンツとの日常、交通インフラへの提言、そして初代トヨタ・ソアラとのエピソードは、彼の多面的な魅力と、日本の戦後史における知られざる側面を浮き彫りにします。彼のような先駆者の存在が、今日の日本の豊かな自動車文化と社会を形成する一助となったことは間違いありません。
参考文献
- 別冊宝島編集部『知れば知るほど泣ける白洲次郎』
- 新潮社『白洲次郎の流儀』