「たった1メートル4センチの修理ミスが、520人の命を奪った」。1985年8月12日に発生し、今年で40年を迎える日航ジャンボ機墜落事故。当時の運輸省航空事故調査委員会は、機体後部の圧力隔壁における不適切な修理が事故原因と結論付けました。事故調査官としてこの圧力隔壁を担当した斉藤孝一さん(80)が当時の状況を振り返り、事故の核心に迫ります。
航空機調査官としてのキャリアと事故の発生
斉藤孝一さんが旧運輸省に航空機検査官として入省したのは1964年。海外旅行の自由化が進み、1970年には「ジャンボ」の愛称で親しまれたボーイング747型機が就航、まさに大量輸送時代が幕を開けた時期でした。その後、事故調査委員会に異動し、12人の調査官の一員となって間もない1985年8月、524人の乗客乗員を乗せた日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落する悲劇に見舞われました。
事故現場での壮絶な経験
事故発生からわずか2日後、斉藤さんは生存者が発見されたスゲノ沢を含む事故現場に入りました。「あの光景は忘れられない」と語る斉藤さん。無数の遺体が散乱する中を慎重に歩き、その日のうちに、事故調査の鍵となる操縦室内の音声記録装置(CVR)と飛行記録装置(FDR)を発見しました。これらの「ブラックボックス」は、事故の真相解明に向けた重要な手掛かりとなります。
圧力隔壁の欠陥、明らかになる事故原因
当初、事故原因として機体後部ドアの破損が疑われましたが、事故発生から約10日後の8月22日、現場を訪れた米国家運輸安全委員会(NTSB)の担当者から「圧力隔壁の修理に不備がある」との指摘が日本側に伝えられました。この情報を受け、調査の焦点は圧力隔壁へと移り、斉藤さんは現場に散らばった隔壁の破片を「一片たりとも残さないよう」徹底的に回収しました。
回収された破片を組み立てると、直径約4.5メートルの圧力隔壁のうち、約1メートルにわたる結合部が、本来2列のリベット(びょう)で結合されるべきところが、わずか1列のリベットでしか固定されていないことが判明しました。事故機は墜落の7年前、着陸時に機体後部を滑走路に接触させる「尻もち事故」を起こしており、製造元のボーイング社の修理チームが損傷した隔壁の下半分を交換する作業を行っていました。この際、指示書とは異なる方法で、結合部のプレートを二つに切断して使用したため、設計上の強度が著しく不足していたのです。
日航機墜落事故で修理ミスが指摘された、組み立てられた圧力隔壁の残骸。問題のリベット結合部が示されている。
ボーイング社との調査の限界と残された問い
なぜこのような修理ミスが発生したのか。斉藤さんは、「指示通り作業すると隙間が生じるため、作業員が二枚に切って隙間を埋めようとしたのではないか」と推測しています。しかし、事故調査の肝となるボーイング社関係者への直接的なインタビューは一切実現しませんでした。このため、2年後に公表された調査報告書には、「指示とは異なる不適切な作業となった」としか記載することができませんでした。斉藤さんは「ボーイング社は日本の警察を恐れたのだろう」と当時の状況を振り返ります。
ボーイング社は事故後、自社の修理ミスを認めましたが、その詳しい理由については現在も明らかにしていません。斉藤さんは今もなお、「なぜ(プレートを)切ったのか真実を知りたい。それが将来の航空安全における貴重な教訓となるからだ」と強く願っています。この悲劇の教訓を未来に活かすためにも、徹底した原因究明と情報の開示が不可欠であると、斉藤さんの言葉は訴えかけます。