安倍元首相銃撃事件「テロリストの思いを汲み取る報道」が招く危険性。ジャーナリスト石戸諭氏が警鐘


安倍元首相銃撃公判。山上同情論の危うさ

 来年1月には判決が出る予定で、最大の争点は量刑だが、まだ公判途中であり軽々には語れないことも多い。検察側は不遇な生い立ちや母の信仰が犯行動機に関わってくる面を否定していないが、宗教的虐待問題が刑を軽くする理由にはならないという姿勢だ。一方の弁護側は、証言の積み重ねで情状酌量を求めるが、安倍元首相を狙った動機を強調しすぎていないように見える。「旧統一教会問題の解決を目論んだテロ」という論理を補強しかねないからだろう。

 私が気になるのは、報道を通じて「暴力は許せないが、山上被告の心情には理解できる面“も”ある」といった同情論が広がっていることだ。

 法廷の外では議論がエスカレートしている。SNSでは本件を「テロ」と呼ぶことさえ許さず、安倍元首相に暴力を呼び込む要因があったかのような話も展開されている。暴力の肯定、新たな偏見を生みかねない危険な推論だ。

宗教2世すべての心情を理解できているのか?

 旧統一教会2世信者の多くは山上被告の気持ちがわかるかのような話も広がったが、これも荒っぽい偏見を助長する。2世といっても多様だ。私が取材で接してきた2世には信仰と折り合いをつけながら、社会生活を営んでいるタイプ(学生も含めて)が多くいた。不遇ともいえる生い立ちも聞いたが、彼らの多くが銃を自作し、公衆の面前で発砲する暴力行為を理解すると決めつけられるいわれはない。

 事件をどうしたら防げたかという大きな問いは法廷以外の多方面からの冷静な検証も含め、多くの時間と労力をかけて思考を深めるものだ。まずはテロリストの思いを汲み取る報道が暴力の連鎖を呼び、軍部の台頭へと繋がった日本メディアの歴史を踏まえて、暴力への同情に警鐘を鳴らす。これが歴史の教訓を意識したメディア人の姿勢であると私は考える。

 公判がいかなる結果をもたらすにしても、この軸をぶらす必要はない。

<文/石戸諭>

【石戸 諭】
ノンフィクションライター。’84年生まれ。大学卒業後、毎日新聞社に入社。その後、BuzzFeed Japanに移籍し、’18年にフリーに。’20年に編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞、’21年にPEPジャーナリズム大賞を受賞。近著に『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』(新潮新書)

日刊SPA!



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