相続税の盲点:葬儀直前の現金引き出しが税務調査で狙われる理由と対策

人生100年時代を迎え、個人の財産形成だけでなく、それを次世代へいかに適切に引き継ぐかという「守りの意識」がますます重要になっています。特に相続税は、個人にとっては一生に一度経験するかどうかの大きな税金であり、その金額は決して無視できません。近年、家族間での相続トラブルも増加傾向にあり、遺産5000万円以下の「一般的な家庭」でその約8割が発生しているという実態は、多くの日本人にとって他人事ではありません。本稿では、相続に関する基本的な税務知識から、特に税務調査で問題となりやすい「相続発生直前の現金引き出し」の取り扱いについて、その盲点と具体的な注意点を解説します。

相続直前の現金引き出し、なぜ税務署に注視されるのか?

相続が発生し、その事実が金融機関に伝わると、故人の預金口座は原則として凍結され、相続人全員の合意がなければ資金を引き出すことができなくなります。このため、急な葬儀費用などに備え、相続発生の直前に慌てて故人の口座から現金を引き出すケースが非常に多く見られます。しかし、この「直前の現金引き出し」こそが、税務調査において最も厳しくチェックされるポイントの一つとなるのです。

相続税の計算において、葬儀にかかった費用は遺産総額から控除することが認められています。例えば、1億円の財産を持つ方が亡くなり、葬儀費用に200万円を費やした場合、相続税の対象となるのは9800万円です。この控除は、相続人にとって大きなメリットとなりますが、問題は「相続開始直前に引き出された現金」の取り扱いにあります。税務上、この現金は「手許現金」として遺産に計上しなければならないという重要な原則が存在するのです。

具体例で見る「二重控除」の罠

この複雑な計算の考え方を具体的な事例で見ていきましょう。A男氏が末期がんを患い、いつ亡くなってもおかしくない状態でした。A男氏の娘であるB子さんは、「父の葬儀費用を今のうちに用意しておかないと、亡くなった後だと口座が凍結されてしまう」と心配し、A男氏の了解を得て、預金通帳(残高1000万円)から現金200万円を引き出しました。この時点で預金通帳の残高は800万円に減少。B子さんは引き出した200万円を自宅の金庫に保管しました。

その後、A男氏が逝去し、B子さんは金庫に保管していた200万円を葬儀社に支払いました。この一連の流れにおける相続税の計算は以下のようになります。相続税は、あくまで相続発生時点における遺産に対して課税されます。A男氏のケースにおける相続開始時点の遺産は、預金800万円と、葬儀準備金として引き出された200万円の「手許現金」の合計1000万円と見なされます。この合計額から、実際に支払われた葬儀費用200万円が控除されます。結果として、相続税の課税対象となるのは、「預金800万円+手許現金200万円-葬儀費用200万円=800万円」となります。

もし、多くの人が誤解しているように、手許現金200万円を遺産として計上せず、葬儀費用200万円だけを控除してしまうと、「預金800万円-葬儀費用200万円=600万円」となり、実際の遺産額よりも少ない金額を申告することになってしまいます。これは「葬儀費用を二重に控除した」と見なされ、税務調査の際には徹底的に追及される「一発アウト」のポイントとなります。調査官は、相続開始直前に行われた現金引き出しの経緯、被相続人の状態や意識、通帳やカードの管理状況などを詳細に質問し、申告内容の整合性を厳しく確認します。この知識がないまま申告してしまうと、高額な追徴課税のリスクが伴うため、細心の注意が必要です。

相続税申告と税務調査における現金管理の重要性を示すイメージ写真相続税申告と税務調査における現金管理の重要性を示すイメージ写真

相続開始「後」の現金引き出しとの違い

では、「相続開始後に現金を引き出した場合はどうなるのか?」という疑問が生じるかもしれません。本来、相続が発生すると金融機関は故人の口座を凍結しますが、死亡届が提出されても、金融機関がその事実を自動的に把握するわけではありません。そのため、相続人が銀行に通知しない限り、キャッシュカードと暗証番号があれば故人の口座から現金を引き出すことは可能です。

しかし、注意すべきは法的な側面です。相続開始後に他の相続人の同意を得ずに遺産を勝手に使った場合、他の相続人から使った金額の返還を求められる可能性があります(不当利得返還請求)。話し合いで解決しない場合は、裁判に発展することもあり得ます。

一方で、相続税の計算上は、相続開始「後」の現金引き出しは異なる扱いとなります。例えば、B子さんが相続開始後に200万円を引き出し、それを葬儀費用に充てた場合、相続税の計算上は、相続開始時点の預金1000万円から葬儀費用200万円を控除し、800万円が相続税の対象となります。この場合、相続開始時の預金1000万円が既に課税対象となっているため、そこから引き出された現金は二重課税の問題を生じさせません。したがって、相続発生後の引き出しは法律上のトラブル(不当利得返還請求)の原因にはなり得ますが、税務上の問題にはならないという違いを理解しておくことが重要です。

結論:税務調査に備えるための重要ポイント

相続税の申告において、特に相続開始直前に引き出した現金の取り扱いは、税務調査で必ず確認される重要なポイントです。葬儀費用として使われたとしても、相続開始時点での「手許現金」として適切に計上し、不必要な二重控除を避けることが肝要です。

相続は人生において避けては通れないテーマであり、その手続きや税務は複雑を極めます。正しい知識を持ち、適切な準備をすることで、予期せぬトラブルや追徴課税を未然に防ぎ、大切な財産を確実に次世代へ引き継ぐことが可能になります。もし不安な点があれば、相続専門の税理士や専門家への相談を強くお勧めします。

参考文献

  • 橘慶太 著, 『ぶっちゃけ相続【増補改訂版】 相続専門YouTuber税理士がお金のソン・トクをとことん教えます!』, ダイヤモンド社