柏木由紀子、日航機墜落事故で夫・坂本九を失い「40年経っても許せない」遺族の悲痛な思い

1985年8月12日、日本航空のジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落した悲劇は、多くの人々の記憶に深く刻まれています。「上を向いて歩こう」などの名曲で知られる歌手、坂本九さんもこの事故で命を落とした520名のうちの一人でした。あれから40年。最愛の夫を失った女優・柏木由紀子さん(77)が、遺族として歩んできた歳月と、未だ癒えることのない心の傷について語りました。

事故が残した深い傷跡:飛行機への恐怖と日航への思い

「時がたてば解決する」――。かつて、そう慰める人々の言葉に憤りを感じたこともあったと柏木由紀子さんは振り返ります。実際、時は流れても、事故への怒りや飛行機への恐れは消えていません。柏木さんは声を絞り出すように語ります。「あれから40年たちますが、事故以降、日航には一度も乗っていません。今も飛行機は極力避け、国内の移動は新幹線を使うことがほとんど。二人の娘が飛行機で移動するときは“大丈夫かな”と、つい不安になります。今も日本航空を許す気持ちにはなれません」。日航機墜落事故が残した深いトラウマが、彼女の日常に影を落とし続けているのです。

幸せな日々が一変:突然の悲劇

坂本九さんが当時43歳、柏木由紀子さんは37歳。結婚して14年が経ち、11歳と8歳の二人の娘に恵まれました。坂本さんが仕事から帰宅すると、妻と娘たちがその隣に座りたがり、“パパの取り合い”が起こる、まるで絵に描いたような幸せに満ちた家族でした。

事故当日の夕方、父親を慕ってやまない娘二人と一緒にお風呂に入っていたといいます。「先にお風呂から出てテレビを見ていた長女が“ママーッ!”と駆け戻って来たんです。“日本航空の飛行機が行方不明だって”と」。日ごろ坂本さんは全日空便を利用していましたが、その日に限って日航便が満席のため手配されていました。夜になると親戚やスタッフが集まって自宅に人が増え、家の周りを報道陣が囲んでいる状態でした。テレビでは搭乗者名簿が読み上げられていて、主人の本名である“オオシマヒサシ”とアナウンサーが口にするのが聞こえてきたのです。

日航機墜落事故で夫・坂本九さんを失った柏木由紀子さん、事故から40年の思いを語る日航機墜落事故で夫・坂本九さんを失った柏木由紀子さん、事故から40年の思いを語る

御巣鷹山での対面:消えない心の痛み

翌日午前2時、柏木由紀子さん一家は車で現地へと向かいました。しかし、夫と対面できたのは、事故から4日後のことでした。「ひつぎの中を見たときの思いは、とても言葉では言い表せません」。

御巣鷹山には、翌年の8月12日に初めて慰霊登山を行い、その後も何度か訪れたそうです。しかし、今年は登る予定はないと語ります。「登ると事故を思い出し、辛くなってしまうのです」。40年という長い歳月が流れても、日航ジャンボ機墜落事故で夫を失った悲しみと心の痛みは、柏木由紀子さんの心に深く刻まれたままです。

遺族が抱える計り知れない苦しみと、それと向き合いながら生きる柏木由紀子さんの言葉は、日本航空123便墜落事故の悲劇を風化させないための重いメッセージとして、私たちに語りかけています。

参考文献