レイテ沖海戦の異変:「最上」を去る零式水偵と生存者の証言

第二次世界大戦における「史上最大の海戦」と称されるレイテ沖海戦は、旧日本軍が壊滅的な打撃を受けた激戦の舞台です。この戦場は、「神風特別攻撃隊」が初めて組織的に運用されたことでも知られています。しかし、この壮絶な戦いを前に、戦艦「最上」で特攻を覚悟しながらも生還した海軍少尉・加藤昇氏の証言は、あまり知られていない異例の出来事を伝えています。戸津井康之氏の著書『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』(光文社)から、加藤氏が目撃した、特攻でも偵察でもない零式水上偵察機(零式水偵)の「離艦」の真実を紐解きます。

スリガオ海峡への進撃と偵察機の動き

1944年10月22日、加藤氏が乗艦する戦艦「最上」は、決戦の地であるフィリピン東部のスリガオ海峡へと向かっていました。24日には、「最上」から偵察のために飛び立った2機の零式水上偵察機(零式水偵)がレイテ湾上空から米艦隊の集結状況を確認し、報告を終えた後、ミンドロ島の基地へと帰投しました。加藤氏は「最上」の艦内で、偵察任務の次の命令を待ち、控えていました。

零式水上偵察機(零式水偵)がフィリピン上空を飛行する様子。第二次世界大戦中、日本の偵察機として「最上」から運用された。零式水上偵察機(零式水偵)がフィリピン上空を飛行する様子。第二次世界大戦中、日本の偵察機として「最上」から運用された。

異例の発艦命令:偵察ではない目的

「最上」の後部甲板には、まだ残された3機の零式水偵が発艦命令を待っていました。しかし、下された命令は偵察任務のためのものではありませんでした。加藤氏が語る異例の内容に、乗組員たちは驚きを隠せませんでした。「偵察任務で離陸していった2機の『零式水偵』を見送った後、私たちは残った3機の機体から、はずせる部品をすべてはずし、機体の外へと運び出していました」と加藤氏は証言します。決戦直前のこの行動は、零式水偵を「地上戦で温存するため、『最上』から陸の基地へ移動させる計画が実行された」結果だったのです。

定員超過の零式水偵:別れの飛行

この異例の移動計画では、航空整備兵たちが可能な限り機体に乗り込みました。零式水偵は本来3人乗りですが、部品をはずせば広いスペースが確保でき、定員以上でも人を乗せることができたのです。加藤氏によれば、「機体の隙間という隙間に身体を折り曲げさせて押し込むようにして何人も乗せました」。通常よりもはるかに定員オーバーとなった3機の零式水偵は、カタパルトから弾き出されるように次々と発艦しました。重い機体を傾けるようにしながらも、上空で体勢を立て直した零式水偵は、両翼を振りながら甲板に並んだ乗組員に別れを告げ、ミンドロ島へと飛び去っていったのです。加藤氏は、「もう、偵察用の艦載機は必要なかったですからね。航空整備兵も同じです」と振り返り、「私ですか?もちろん『最上』に残りましたよ。だって私は海軍少尉ですから」と、自らの立場と運命を語りました。

レイテ沖海戦という壮絶な運命を前にして、戦艦「最上」で繰り広げられた零式水偵の異例の離艦劇は、単なる兵器の移動に留まらない、戦争末期の日本軍の苦境と個々の兵士が直面した厳しい現実を物語っています。加藤昇氏の証言は、大戦の知られざる側面を浮き彫りにし、歴史の重みを私たちに伝えてくれます。


参考文献