太平洋戦争が起きる前に、日本は米国や英国と協力的な関係を築くことは可能だったのか。近現代史研究者の辻田真佐憲さんは「今の視点で見れば、可能だったかのように思える。だが、当時の日本が抱いていた英米への不満を考えるに、協調外交は容易ではなかった」という――。(第1回)
※本稿は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
■日米が連携していたかもしれない“幻の満州開発計画”
「もし日本が米英との関係を友好的に保っていれば、資源も確保でき、あのような戦争にいたらずに済んだのではないか」という見方がある。これは、外交評論家や国際政治学者と呼ばれるものたちのあいだでしばしば唱えられる歴史の“イフ”だ。
桂・ハリマン協定の破棄はそのターニングポイントのひとつとしてよくあげられる。
日露戦争後の1905(明治38)年、日米が共同で満洲を開発するという計画が持ち上がり、桂太郎首相と米国の鉄道王ハリマンとのあいだで予備覚書が交わされた。戦後の財政難に直面していた日本が、米国資本の導入によって満洲経営の安定を図ろうとしたものだった。しかし、小村寿太郎外相の強い反対により、この協定は最終的に破棄された。
もしこの時点で日米協力の枠組みが確立されていれば、第一次世界大戦後、中国のナショナリズムの高まりによって日本の特殊権益が脅かされた際にも、米国との連携を通じて安定的に対処できたのではないか。あるいは、満洲事変のような局面にいたっても、日米の連携が可能だったのではないか。こうした見解が一定の説得力を持って語られているのである。
■避けられなかった日英同盟の失効
同様の議論は、日英同盟にもあてはまる。
1902(明治35)年に締結されたこの同盟は、日露戦争後も維持されていた。だが、第一次世界大戦後に開かれたワシントン会議を経て、1923(大正12)年に正式に失効した。
会議の場で、英国は従来の二国間同盟を拡張し、日英米の新たな枠組みを模索していたが、最終的にはフランスを加えた四カ国条約という多国間の協定に落ち着いた。それは、従来の同盟関係とは異なり、緩やかな協調体制にすぎなかった。
もしこの外交交渉において、日英同盟がなんらかのかたちで継続されていたならば、日本は英国との対立を避けつつ、より安定した立場で国際社会にとどまることができたのではないか。そうした見立ても一部で行われているのである。
こうした議論の根底にあるのは、“勝ち組”米英との協調関係を保っていれば、日本は“負け組”独伊との連携に走ることなく、最終的には戦勝国として“勝ち馬に乗れた”という発想だろう。
しかし、これらはあくまで現在の視点、とりわけ戦後の日米関係を前提に、遡及的に導き出された推論にすぎないのではないか。