昭和18年(1943年)4月18日、連合艦隊司令長官・山本五十六の戦死は、太平洋戦争の大きな転換点となりました。ノンフィクション作家・保阪正康氏は、日本の敗因として、日本軍の情報機関の貧弱さとアメリカの国力への理解不足を指摘します。彼の死が戦局に与えた影響を深く掘り下げます。
山本五十六が海軍省次官を務めていた1939年8月の写真。太平洋戦争開戦前の山本五十六の姿を示す。
「最も有能な指揮官」山本五十六の戦死が太平洋戦争に与えた衝撃
1943年4月18日午前、山本五十六の搭乗した一式陸攻機が撃墜され、彼は副官や軍医長らと共に戦死しました。この山本長官の死は、太平洋戦争の行方を大きく左右する決定的な出来事であったと、多くの歴史家が分析しています。特に皮肉なことに、その意味を最も深く理解していたのは敵対するアメリカ側でした。
太平洋艦隊司令長官であったチェスター・ニミッツ元帥は、その著書『THE GREAT SEA WAR』の中で、山本の死について具体的に言及しています。「非常に几帳面な山本元帥の性格を計算に入れ、航続距離の長い戦闘機の一個中隊がヘンダーソン飛行場(ガダルカナル)から発進。彼の飛行機が着陸のため近づいてきたとき、計画どおり正確にこれを撃墜した。日本海軍にとって、最も有能であり、最も活動的な指揮官山本提督を失ったことは敗北に匹敵するほどの致命的な打撃であった」と記しています。今日、多くのアメリカの歴史家や軍事史家は、日米の戦いは「山本の死によって決まった」という見方で一致しており、彼の存在がいかに日本の戦略の中核を担っていたかが伺えます。
山本五十六が語った「1年間の暴れ」と、開戦前後の本音
山本五十六は、1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃など、海軍の主要な作戦を主導してきました。これらの並外れた着想は、彼の深い洞察力から生み出されたものです。海軍軍人として計6年間の駐米勤務を経験していた山本は、日本がアメリカと互角に戦えるほどの軍事力を持っているとは決して考えていませんでした。
開戦前に彼が発した「1年間は太平洋で暴れてみせる」という言葉は、その深刻な認識をよく物語っています。さらに具体的な話として、山本は開戦後も密かに海軍大臣・嶋田繁太郎に対し、「アメリカと戦うことに自信を持つ者と交代させてほしい」と申し出ていました。しかし、その都度「適当な者がいない」と却下され続けました。この事実は、彼自身が日本の勝利に懐疑的でありながら、その職責を全うせざるを得なかった苦悩を示しています。
結び
山本五十六の戦死は、単なる人的損失に留まらず、日本軍の戦略、そして戦争全体の士気に深刻な影響を与えました。彼の死が「日米の戦いの決定点」とまで評される背景には、彼が日本の限られた国力を正確に認識し、無謀な戦争への強い懸念を抱いていた事実があります。この事例は、情報分析の甘さと国家力の過大評価が、いかに悲劇的な結果を招くかを示す歴史的教訓と言えるでしょう。
参考資料
- 保阪正康 著『昭和陸軍の研究 下』(朝日文庫)
- Yahoo!ニュース (元記事:PRESIDENT Online)