生命保険会社に勤務する営業社員が、顧客の「名義借り契約」や不適切な契約手続きに関与したとして懲戒解雇されたものの、会社が行った退職金全額不支給の処分が裁判所で違法と判断される事案が発生しました。本来約999万円の退職金を受け取るはずだったこの社員に対し、裁判所は懲戒解雇は有効としつつも、退職金の一部、約299万円の支払いを命じる判決を下しました。本記事では、この注目の裁判例に基づき、事の経緯と法的な判断のポイントを詳しく解説します。企業のコンプライアンス体制や従業員の労働問題、特に懲戒処分時の退職金の扱いに関心のある方にとって、重要な示唆となるでしょう。
積み上げられた高額の紙幣。保険営業員の懲戒解雇裁判で争われた約999万円の退職金を象徴するイメージ。
不正発覚のきっかけとなった二つの事件
生命保険会社で営業職として保険の販売業務に従事していたAさんは、営業成績に悩む中で不適切な契約手続きに手を染めていました。
事件1:友人Bさんとの「名義借り契約」
最初の事件は2016年に遡ります。Aさんは旧知の友人Bさんに対し、「名前だけ貸してほしい」と依頼し、生命保険契約を成立させました。Bさんには保険料の支払意思も加入意思もなく、毎月の保険料5,000円はAさんが全額肩代わりしていました。この契約は33か月にわたり継続し、最終的にはAさんの依頼でBさんが解約手続きを行い、解約返戻金もAさんが受け取っています。これは、会社が定める就業規則において懲戒解雇の対象となる「名義借り契約」に該当する行為でした。
事件2:知人Cさん親子との不適切契約
約6年後の2022年、Aさんは別の知人Cさんとその息子に関する保険契約を2件手がけました。いずれの契約も契約者はCさん、被保険者はCさんの息子という形で申し込みがなされましたが、AさんはCさんの息子と面談を行わず、契約書への署名もCさんなどに代筆させたものでした。さらに、1回目の契約はCさんが保険料を未納したため不成立となり、2回目の契約も同様に保険料が支払われずに不成立に終わっています。
会社による事実確認とAさんの弁明
Aさんの不正行為は、顧客からの通報によって明るみに出ます。
コールセンターへの通報から疑惑が浮上
約2か月後、知人Cさんが会社のコールセンターに連絡を入れ、「契約手続きの際にAさんが息子と面談しなかった」「署名も代筆だった」と通報しました。さらにCさんは、「Bさんが『名前を貸したことがある』と言っていた」とも伝え、これにより会社はAさんによる「名義借り契約」の疑いを強く抱くに至りました。この通報を受け、会社がBさんに聴取を行ったところ、Bさんは「Aさんに『成績が悪いから名前だけ貸して』と頼まれた」「保険料はすべてAさんが負担している」と証言し、名義借り契約の事実が確定しました。
Aさんの自認と一転した弁明
事態を重く見た会社の担当者がAさんに事情聴取を行ったところ、Aさんは当初、名義借り契約を認める趣旨の自認書を手書きで作成し提出しました。しかし、Aさんは後日になって弁明書を提出し、態度を一変させます。弁明書には、「Bさんが保険加入を自ら承諾して契約書に署名捺印をしたものであり、私からBさんに名義を貸してほしい旨の依頼をしたことはない」「Cさんに係る契約について、代筆等は認めるが、いずれも契約自体が成立していないので、コンプライアンス上、問題になる事案ではない」などの記載があり、自身の不正行為を否定する姿勢を見せました。
懲戒解雇と退職金不支給、そして法廷へ
会社はこれらの不正行為を重く見て、Aさんを懲戒解雇とし、さらに約999万円の退職金全額を不支給とする処分を下しました。この処分に対し、Aさんは不服を申し立て、懲戒解雇が無効であることと退職金全額の支払いなどを求めて提訴するに至りました。
裁判所が下した判断:懲戒解雇は有効、しかし退職金は一部支給
裁判所は、Aさんの行った「名義借り契約」や「代筆」といった行為が、生命保険会社における営業職の職務規律に著しく違反し、企業秩序を乱す重大な不正行為であると認定しました。これにより、Aさんに対する懲戒解雇の処分は有効であると判断されました。
しかし、退職金全額不支給の判断については、異なる見解を示しました。裁判所は、退職金は長年の勤務に対する功労報償的な性格を持つことから、全額を不支給とするためには、過去の功労を抹消するほどの重大かつ悪質な背信行為が必要であるとしました。本件においてAさんの不正行為は重大であったものの、長期間の勤務に対する退職金を全額不支給とするほどの極めて悪質な背信行為とまでは断定せず、退職金規程の趣旨と整合しないとして退職金全額不支給を違法と判断しました。その結果、裁判所は、Aさんに本来支給されるべき退職金の約3割にあたる約299万円を会社が支払うべきであるとの判決を下しました。
職場のトラブルに関する労働相談窓口「総合労働相談コーナー」の厚生労働省による案内。懲戒解雇や退職金問題の相談先として。
結論
この裁判例は、従業員の重大な不正行為に対する懲戒解雇の有効性を認める一方で、退職金全額不支給の判断にはより厳格な要件が求められることを明確に示しました。企業にとっては、就業規則や退職金規程の運用において、個別具体的な事案の性質や従業員の勤務状況を総合的に考慮する必要があるという示唆を与えます。また、従業員にとっては、不正行為の重大性が改めて浮き彫りになると同時に、懲戒処分時の退職金に関する法的保護の一端が示された事例として、今後同様の労働問題に直面した場合の重要な参考となるでしょう。
参考文献