フジテレビが前社長の港浩一氏と元専務の大多亮氏に対し、元タレント・中居正広氏と同社元女性アナウンサーを巡る人権問題への不適切な対応を理由に、50億円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴したニュースは、世間に大きな衝撃を与えました。同社はさらに、損害総額が453億円以上に及ぶことも明らかにしています。この巨額な賠償請求は、フジテレビが過去の経営体制と決別する姿勢を示すものとして評価される一方、元テレビ朝日法務部長である西脇亨輔弁護士は、提訴の裏に潜む「役員等賠償責任保険」(D&O保険)の問題点を指摘しています。
巨額提訴の背景にある「役員等賠償責任保険」(D&O保険)
近年、多くの企業役員は、自身の職務に関する損害賠償や裁判費用のリスクに備え、「役員等賠償責任保険」(通称:D&O保険)に加入しています。この保険は、役員の在任中だけでなく、退任後の事案であっても、職務に関連する訴訟費用や賠償金をカバーするものです。訴訟が珍しくない現代において、一見すると極めて合理的なリスクヘッジの手段に見えます。
しかし、西脇弁護士は、このD&O保険には以前から根本的な疑問が指摘されてきたと強調します。その最大のポイントは、多くの場合、この保険の保険料を支払っているのが「役員個人」ではなく「会社」であるという実態です。フジ・メディア・ホールディングス(FMH)の事業報告書にも、FMHおよびフジテレビの役員が保険に加入し、法律上の損害賠償金や争訟費用が補填されること、そして「すべての被保険者について、その保険料を全額当社が負担しております」と明記されています。
会社が「加害者」の保険料を払う、D&O保険の「ねじれ」
役員個人が将来のリスクに備え、自費で保険に加入するのであれば、自動車保険などと同様に何ら問題はありません。しかし、D&O保険の保険料は高額になることが多く、役員個人での負担が困難なため、会社が役員を守るために保険費用を負担することが少なくありません。ここに深刻な「ねじれ」が生じると、西脇弁護士は指摘します。
本来であれば、問題を起こした役員から損害賠償を受け取るべき「被害者」である会社が、その「加害者」である役員のために賠償の原資となる保険料を支払っているという構図です。この場合、会社が役員を訴え、賠償金を取り戻したとしても、その資金は実質的に「自社が支払ってきた保険料のリターン」に過ぎず、役員自身には金銭的な「痛み」が伴わないことになります。
このような状況は、会社と役員の間で「利益相反」にあたるのではないかという指摘が以前からされてきました。つまり、会社が役員のために保険料を支払うことは、役員の利益を優先し、会社の利益を損なう可能性があるという問題です。
元テレビ朝日法務部長で弁護士の西脇亨輔氏。フジテレビの巨額提訴とD&O保険の問題点を解説する専門家。
フジテレビ提訴がもたらす「プラスマイナスゼロ」の可能性
今回のフジテレビによる港氏らへの提訴においても、もしD&O保険が適用されるのであれば、賠償金の一部または全部は「会社が経費として支払ってきた保険の利用」によって賄われることになります。結果として、港氏や大多氏は個人の負担を免れる可能性が高いです。
この仕組み上、直接的な損害を被るのは保険会社ということになりますが、今回のような巨額の保険金が支払われれば、FMH役員に関する今後の保険料は値上げされる可能性が高いでしょう。そして、FMH側はその増額された保険料を払い続けざるを得なくなります。
西脇弁護士は、この一連の流れを考えると、フジテレビが港氏らから賠償金を得たとしても、「保険料の支払い増」といった形で、最終的にはFMH・フジテレビ側にその負担が戻ってくる可能性があり、実質的には「プラスマイナスゼロ」の事態となり得ると警鐘を鳴らしています。
法改正後のD&O保険:情報開示の限界と課題
このような「会社負担の役員保険」に関する問題が指摘され、令和元年の会社法改正では、取締役会などの決議を必要とすることが義務付けられました。しかし、自らの保護に関わる保険契約に対して、取締役の集まりである取締役会が反対することは考えにくいのが実情です。
そこで、もう一つの仕組みとして設けられたのが、会社による保険契約の「情報開示」でした。しかし、この情報開示も十分とは言えません。現状、各社が開示しているのは保険契約の概要に留まることが多く、「いくらまで保険でカバーされるのか」といった肝心な上限額などの詳細はほとんど明かされません。FMHの事業報告書においても、保険契約の概要として「犯罪行為、不正行為、詐欺行為または法令、規則、または取締法規に違反することを認識しながら行った行為等」は保険の対象外といった抽象的な記載はあるものの、保険金の上限額などについては具体的な情報が記載されていませんでした。
今回のフジテレビによる巨額提訴は、一見すると強硬な姿勢を示すものですが、その裏側にあるD&O保険の「ねじれ」や「利益相反」といった問題は、企業統治における重要な課題として、今後も議論されるべき点だと言えるでしょう。
参考文献:
- Yahoo!ニュース (元テレビ朝日法務部長・西脇亨輔弁護士が解説)
https://news.yahoo.co.jp/articles/40e95b7e995a848fe521893e21c84a446d2d9480