戦後日本の“黒幕”:児玉誉士夫の知られざる素顔

戦後日本の歴史は、表舞台だけでなく、政官財を裏から動かした「黒幕」たちの存在なくして語れない。彼らは金脈と人脈を駆使し、日本の方向性を静かに操ってきた。その中でも特に異彩を放ち、そのイメージを最も体現する人物として知られるのが児玉誉士夫である。本稿では、戦後最大級のフィクサーと呼ばれた彼の知られざる素顔と、その初期の活動に迫る。

若き日の「イケイケ」右翼活動と服役

松本清張の代表作「けものみち」に登場する「黒幕」像。そのイメージに最も近い実在の人物こそ、紛れもなく児玉誉士夫であった。彼は政財界だけでなく、裏社会にまで広く顔が利く大物右翼として名を馳せることになる。

児玉は1911年(明治44年)、福島県で生を受けた。10代の頃から右翼団体を転々とし、その過激な行動で知られる。天皇直訴事件、国会ビラ撒き事件、閣僚脅迫事件などに連座し、若くして何度も服役を経験した。当時20歳そこそこだった児玉は、まさに「イケイケの右翼青年」だった。この間、彼は独自の右翼団体「独立青年社」を設立。首相暗殺計画を含む大規模騒乱未遂事件で逮捕され、再び獄中生活を送った。

戦後日本の裏社会を象徴するイメージ戦後日本の裏社会を象徴するイメージ

戦略物資調達を担った「児玉機関」の暗躍

児玉の活動は国内に留まらなかった。1937年(昭和12年)の日中戦争開戦頃から中国大陸へ渡り、外務省や陸軍の下請け業務に従事。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦直前には、笹川良一の手配で海軍省航空本部の嘱託となる。

戦時中、児玉は上海を拠点に、タングステンやコバルトなどの重要戦略物資を調達する「児玉機関」を率いた。この機関には大陸浪人崩れやアウトローな若者が多く、現地では略奪に近い強引な手段で物資を集めた。その結果、児玉の手元には大量の戦略物資だけでなく、ダイヤモンドやプラチナなどの貴金属が蓄積された。終戦時、彼はこれらを巧妙に隠匿し、密かに日本へと持ち帰ることに成功。この行為が、戦後の彼の巨大な金脈の源流の一つとなった。

このように、児玉誉士夫は若き日から右翼活動家として頭角を現し、戦時中は「児玉機関」を率いて国策に深く関与し、莫大な富を築いた。彼の生涯は、金脈と人脈を巧みに操り、戦後日本の政治・経済に多大な影響を与えた「黒幕」としての側面を色濃く示している。