学校で学ぶ歴史の知識が、いつの間にか古くなっていたという経験は珍しくありません。新たな史料の発見や研究の進展により、これまでの解釈が覆され、歴史が塗り替えられることはしばしば起こります。日本の城に関する知識も例外ではなく、近年行われた科学的な調査や発掘調査によって、長らく常識とされてきた事実が大きく変わることがあります。
丸岡城、「現存最古」の称号が後退した経緯
かつて、現存する12の天守の一つである丸岡城(福井県坂井市)の天守は、「現存最古」として広く知られていました。その古風な佇まいから、天正4年(1576年)に柴田勝家の養嗣子である勝豊が築いたという説が有力視されていました。しかし、令和元年(2019年)に実施された包括的な学術調査の結果、この天守が寛永3年(1626年)以降に建てられたことが判明し、歴史的な位置づけが大きく変わったのです。
具体的な調査では、天守の床下に保管されていた通し柱に対し、年輪の数や幅の大小を詳細に測定する酸素同位体比年輪年代調査が行われました。その結果、この柱は1626年に伐採されたと判定されました。また、他の柱や梁も同様の調査で1620年代の伐採と判明しています。さらに、通し柱の外側の年輪年代を測定する放射性炭素年代調査では、生物が生命を失ってから半減する放射性炭素の含有量を科学的に測り、1623年+αという結果が得られました。
これらの科学的根拠により、戦国時代に建てられた「現存最古の天守」という説は否定され、丸岡城の天守は犬山城、松本城、彦根城、姫路城、松江城の天守よりも新しく、太平の世に築かれた古風な天守として再評価されることになりました。
2025年、“建築年代が確定していてもっとも古い天守”になった松本城
織田信長・小牧山城の常識を覆す発見
織田信長が永禄4年(1563年)に美濃(岐阜県南部)の斎藤氏を攻略するための前線拠点として築いた小牧山城(愛知県小牧市)もまた、その歴史が大きく見直された城の一つです。この城は、岐阜城に移るまでの4年間しか使用されなかったため、急ごしらえの仮の城であったと考えられていました。
しかし、その後の発掘調査により、城の南側には本格的な城下町が広がっていたことが明らかになりました。さらに、平成16年(2004年)以降の発掘調査では、主郭の周囲に巨石を積み上げた2段および3段の石垣が巡る、本格的かつ先進的な城であったことが判明しました。信長がいかに戦略的かつ革新的な城を築いたかを示す、重要な発見でした。
小牧市は令和3年(2021年)から令和7年(2025年)度にかけて、山頂の主郭部の復元整備を進めており、現在では、以前とは全く異なる壮大な景観が広がっています。これらの発見は、歴史書だけでは知り得なかった、信長時代の城郭の真の姿を私たちに伝えています。
歴史理解の深化:科学と考古学が拓く新事実
丸岡城や小牧山城の事例が示すように、歴史は決して固定されたものではなく、常に新たな発見や科学的な分析によって更新され続ける学問です。特に、年輪年代調査や放射性炭素年代調査といった精密な科学調査、そして地道な発掘調査は、文献史料だけでは見えてこなかった過去の真実を明らかにする強力な手段となります。これらの技術の進歩は、日本の城郭史だけでなく、私たちの歴史理解全体をより深く、正確なものへと導いてくれるでしょう。





