久住昌之「孤独のファイナル弁当」:控えめな魅力、かんぴょう巻再発見

漫画家・音楽家である久住昌之氏が「人生最後に食べたい弁当」を追求する人気連載「孤独のファイナル弁当」。今回は、スーパーで偶然目にした「かんぴょう巻(6巻)」に注目し、その素朴ながら奥深い味わいを自宅でじっくりと堪能した様子が綴られています。一見地味な存在ながら、日本の伝統的な巻き寿司として愛され続けるかんぴょう巻の真価とは何でしょうか。

スーパーの片隅で出会った「最後の弁当」

ある日、スーパーの弁当コーナーで久住氏の目に留まったのは、158円の「かんぴょう巻(6巻)」でした。もしこれが人生最後の弁当だったら――久住氏はその状況を想像し、思わず笑みがこぼれたと言います。華やかさとは無縁の、小さく地味なその佇まい。スポットライトが当たり、ドラムロールが鳴り響く中、ワゴンに乗って現れるのがこのかんぴょう巻だとしたら、それは確かに彼らしい「ファイナル弁当」なのかもしれません。

しかし、久住氏は「これかよぉ」と不満を漏らすような男にはなりたくないと強く語ります。その思いを胸に、彼はレジへと向かい、自宅のテーブルに「かんぴょう巻」を置きました。透明なパックを開けば、そこには醤油だけが添えられ、生姜はありません。しみじみとしたその姿は、まさに日本の伝統的な巻き寿司の奥ゆかしさを体現しています。 韓国のキンパとは異なる静けさ、端正な魅力がそこにはありました。

透明なパックに並ぶ茶色い細巻きのかんぴょう巻透明なパックに並ぶ茶色い細巻きのかんぴょう巻

寿司界の「いぶし銀」:かんぴょう巻の再評価

久住氏によれば、かんぴょう巻は、握り寿司の豪華なネタ(マグロ、赤貝、ウニなど)の影に隠れ、イカやタコ、玉子の脇役として、最も目立たない隅にひっそりと佇む存在です。時にはかっぱ巻に席を譲り、そっと姿を消すことも少なくありません。若い頃の久住氏自身も、どこかかんぴょう巻を侮り、その真価を味わうことなく過ごしていたと言います。

しかし、還暦を前にして、ふとかんぴょう巻を一口味わった時、「うまいかもしれない」という思いが彼の心によぎり、目が覚めるような体験をしたそうです。それはまるで、長年の見誤りを反省するかのような瞬間でした。

スーパーの弁当コーナーに並ぶかんぴょう巻のイメージスーパーの弁当コーナーに並ぶかんぴょう巻のイメージ

伝統が息づく味と食感

甘辛く煮詰められたかんぴょうの、シャリの中で感じられる独特の噛み応え、そして海苔と混じり合う香りは、まさに絶妙です。かんぴょうは野菜でありながら、干されることでしなやかなコシを手に入れます。これは、寿司の長い歴史の中で荒波を生き抜いてきた「伊達ではない」証拠だと久住氏は力説します。活魚が主役の寿司において、かんぴょう巻はまるで「ほっとする存在」として必要不可欠だったのです。

久住氏は、かんぴょう巻を「雑草選手」「いぶし銀の業師」「握り寿司界の門番」「沈黙の用心棒」と称します。その切り口の美しさ、ご飯一粒一粒がスパッと切れている包丁の技、そして煮汁がシャリにじわりと染み込んでいる様は、和の風情そのものです。「粋」であり、先人たちが握り寿司の世界にかんぴょう巻を加えた英断に感銘を受け、「俺はかんぴょう巻になりたい」とまで語るほどでした。

最後のひとつと確かな自信

夢中になって三つを平らげた久住氏は、お茶を入れるのを忘れていたことに気づきます。慌ててインスタント味噌汁を用意し、最後のひとつを口にしました。彼はこの時、「死ぬ前にこれが最後の弁当でよかった」と心から思える、その確かな自信を得たのです。

控えめで地味ながらも、深い味わいと日本の食文化に根ざした存在感を持つかんぴょう巻。久住昌之氏の「孤独のファイナル弁当」を通して、その見過ごされがちな魅力が再発見されました。


著者情報

久住昌之: 1958年、東京都出身。漫画家・音楽家。代表作に『孤独のグルメ』(作画・谷口ジロー)、『花のズボラ飯』(作画・水沢悦子)など。Xアカウント:@qusumi

出典

日刊SPA! (Source link: https://news.yahoo.co.jp/articles/9d1fcc76fe5ce0be38068a253fb0c39ff69ce5ed)