【夜間中学はいま 震災編】(下) 「わかると感動」 心の復興 



「夜間中学に入学して生き方が変わりました」と笑顔で話す鄭榮子さん=神戸市立丸山中学校西野分校(安元雄太撮影)
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 家族の思い出がつまった自宅が燃えるのを茫然と見つめた。住み慣れた街が炎にのみこまれるのを息をのんで見ているしかなかった-。阪神大震災で被災した神戸市立丸山中学校西野分校3年の鄭榮子さん(81)は、当時の情景を今も鮮明に覚えている。「思い出すとつらいんですけどね…」。だが、多くの命が奪われたあの日を忘れてはいけない。震災から25年となる17日、焼け落ちた自宅のあった神戸市長田区内の慰霊碑を訪れ、手を合わせた。夜には学校で防災の授業を受けた。

 鄭さんは、日本で7人きょうだいの6番目に生まれた在日2世。5歳のときに母が亡くなった。15歳上の長兄夫婦が親代わりとなって育ててくれたが、生活は苦しく、その日を生きるのに必死だった。

 小学5年生のとき、朝鮮学校から日本の学校へと移ったが、日本語は話せても読み書きができない。「算数だけは何とかついていけましたが、他の教科は全然わかりませんでした」。給食代を払えなかったので、給食の時間はいつも運動場で遊んでいた。中学校には入学したものの、働き始めたこともあって2学期頃から通えなくなった。

 22歳で結婚し、5人の子供に恵まれた。「学校に行ってないことで嫌な思いもいっぱいしました。子供たちには私のような苦労はさせたくないという一心で頑張りました」と話す。

 平成7年1月17日午前5時46分、阪神大震災が起きた。

 激震で家が崩壊し、熟睡していた鄭さんは、夫とともにがれきの下敷きになった。やがて焦げ臭いにおいが漂う。必死になってがれきをかき分け、何とか外にはい出した。周りに目をやると、見慣れた光景は一変していた。「まるでゴジラが踏みつぶしていったように、街がぐちゃぐちゃになっていました」。すぐそこまで火が迫っている。パジャマ姿のまま裸足で逃げた。

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